目次
ヘーゲル『精神現象学』(承前)
序文(承前)
ヘーゲル独特の皮肉
右に挙げたような説明を要求することは,その要求を満足させることとならんで,本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである.なんらかの哲学的著作について,その内奥にあるものは,当の著作の目的と帰結を措いて,それ以上にいったいどこで表明されているというのか.さらには,そうした目的と帰結がはっきりと認識されるのは,なによりも,同時代人たちがそうはいってもおなじ領域で生みだしたものとの相違をつうじてのことではないのか.〔ひとはそう主張するわけである.〕とはいえ,このようなふるまいが,認識するにさいしてそのはじまり以上のものと見なされ,それがまた現実的な認識と見なされる,などというはこびとなったとしてみよう.その場合には,じっさいには手管に数えいれられるべきものが生まれているのであって,それによってことがらそのものが回避される.そのうえ,ことがらをめぐって真剣に努力しているかのような外観と,当の努力を現実には省略すること,この両者がむすびあわされているのである.
(Hegel1807: ⅳ-ⅴ,熊野訳(上)13〜14頁)
この箇所はヘーゲル独特の皮肉が効いていて,一見すると肯定的な見解が示されているようにも見えるが,じっさいには否定的な見解が示されているのである.
前のパラグラフの冒頭には,「或る哲学的労作が,対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう」と述べられていた.例えば,ヘーゲルの著作がフィヒテやシェリングといったドイツ古典哲学者の著作と比較検討され得るであろう.そういった同時代人の著作と比較することによってそれぞれの違いが分かるという主張が,ここでは通俗的な見解であるとされている.しかしながら,前パラグラフに見たように,そうした比較の仕方は,それぞれの立場を固定化し一面化することによる説明に過ぎなかったのである.「右に挙げたような説明を要求することは,その要求を満足させることとならんで,本質的なことがらに従事していることと見なされやすいものである」がしかし,実はそれはなんら本質的なことがらではないのである.