目次
ヘーゲル『法の哲学』(承前)
対外主権性(承前)
「国家」を「市民社会」と取り違えてはならない
第324節の注解を見ていこう.
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この犠牲の要求にさいして,国家が単に市民社会としてのみみなされ,また個人の生命および所有の保障〔Sicherung〕のみが国家の究極目的とみなされるならば,これは非常にゆがんだ考量の仕方である.というのも,この保障〔Sicherheit〕は,保障されなければならないものが犠牲にされるのでは達成されないのであり,むしろその逆だからである.
(Hegel1820: 332,上妻ほか訳337〜338頁)
ここで「逆だ im Gegentheil 」とヘーゲルがいうのは,端的に言えば,「国家」の安全保障のために「個人の生命および所有」こそがかえって犠牲にされなけばならない場面が想定されていると言えるだろう.その場面とは,具体的には「戦争」である.
およそフランス革命以降の近代憲法に従えば,「個人の生命および所有の保障のみが国家の究極目的とみなされる」ことは,当時の時代認識からすれば,極めて常識的な「国家」観であるように思われる.しかしながら,ここでヘーゲルは「国家」を単に「市民社会」と取り違えないように注意を促している.というのも,「(政治的)国家」」*1と「市民社会」の分離こそが、ヘーゲル法哲学にみられる独自のアイデアの一つであるからだ.したがって,「国家が単に市民社会としてのみみなされる」場合には,ヘーゲル以前の政治哲学に逆戻りしているわけである.上記の内容に関わるので,「市民社会」章,C「行政と職業団体」の一節を以下に引いておく.
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第230節
欲求の体系においては,各々の個人の生計と利福とはひとつの可能性として存在するにすぎず,その現実性は,各々の個人の恣意や自然的特殊性によって制約されていると同様,欲求の客観的体系によっても制約されている.司法によっては,所有および人格性の侵害が償われるだけである.しかし,特殊性にあっては現実的な法は,あれこれの目的を妨げる偶然性が廃棄されて,人格と所有の妨げられることなき安全〔Sicherheit〕がもたらされることを含んでいるだけではなく,個々人の生計と利福の保障が——つまり特殊的利福が権利として扱われ,現実化されることも含んでいる。
(Hegel1820: 226,上妻ほか訳151頁)
「市民社会」における「欲求の体系」は個々人の特殊性(所有など)が尊重されるが,同時に個々人の特殊性は同じくその圏域に属する様々な個々人からの侵害を受ける可能性があり,その限りで個人の特殊性は偶然性に曝されている.このような欠陥をいわば事後的に補償すべく存在するのが「司法」であり,またそのような事態を事前に配慮し防ぐのが「行政」であり,同時に個々人のさらなる教養形成を担い、その志操を涵養して国家へと媒介するのが「職業団体」である.
第324節との関わりで言えば,「個人の生命および所有の保障のみが国家の究極目的とみなされる」場合には,そのような目的を持つのは,ヘーゲル法哲学の体系においては「行政 Polizei 」であって「(政治的)国家」ではない.