目次
ヘーゲル『精神現象学』(承前)
序文(承前)
教養形成の始まり
自己を形成し教養を身につけ 、実体的生の直接態から抜け出す ためには、いつも次のことから始められねばならない。つまり、諸々の一般的な原則と見地について知見をえ、そうすることによって初めて、事柄 一般の思想に向って努力を傾け 、またそれに劣らずこれらのものにいろいろな理由に基づいて賛成または反対し、具体的で豊かに充実した内容を規定してつかみ、この内容について正統な決定と厳粛な評定を与える途を心得る、ということから始められねばならない。だが、この自己形成 の始まりは、さしあたり充実した生の厳粛な姿に道をあけ、この厳粛な姿が事柄そのもの の経験へと導いて行ってくれるであろう。たとえさらに概念〔把握〕の真摯さが事柄の深みに踏み入れば、このような知見と評価とは〔日常的〕おしゃべりのなかでそれぞれにふさわしい位置を占めつづけるのだ、という事実が付け加わるとしても。(Hegel1807: Ⅵ,樫山訳(上)20頁)
ここでヘーゲルはいわゆる「教養形成 Bildung」がいかにしてなされるべきかについて語っている。「教養形成」を理解する鍵は「苦労=労働 arbeiten」ある。
「実体的生の直接態」というのは、いわば生まれてきたばかりのあり方そのもののことであって、決して一度も努力をしたことがない状態である。「実体的生の直接態から抜け出す heraus|arbeiten」だとか、「事柄一般の思想に向って努力を傾け herauf|arbeiten」るというように、「教養形成 Bildung」には「苦労=労働 arbeiten」がつきものである。もしも大人であっても人生の中で一度も苦労=労働したことがないとすれば、その人には「教養がない」と言っても過言ではない。
「教養形成」はおふざけではなく「真摯さ Ernst」にいきつく。「この
ここで「おしゃべり Conversation」というのは、一見すると「真摯さ Ernst」に相反する行為であるように思われるが、むしろ「教養」を伴ってこそユーモアあふれる「会話」ができることを示唆している。なぜならば、「会話 Conversation」においては、一般に通用する知見を持たない者の話す内容は、相手にその意図が通じないので面白くもなんともないからである。