目次
ヘーゲル『法の哲学』(承前)
第三部「人倫」第一章「家族」(承前)
「自然的衝動」よりも優位に立つ「精神的な絆」
第163節
婚姻の倫理的なものは、実体的目的としてのこの一体性の意識にある。したがって愛、信頼、個体的存在全体の共同性にある。——こうした心術と現実性においては、自然的衝動は、満たされればすぐ消え失せるのが定めの自然的契機という様相にひきさげられるとともに、精神的な絆がおのれの権利を得、この絆が、実体的なものとして、したがって情熱の偶然性や一時的な特殊的好みの偶然性を超えた、それ自体としては解消することのないものとして、ひときわはっきりと姿をあらわしてくる。
(Hegel1820: 169-170,藤野・赤沢訳(II)43〜44頁)
ここでは自然性と精神性のせめぎ合いが見られる。婚姻が「倫理的」と見做される所以は、「自然的契機」よりも「精神的な絆」が優位に立つからである。「愛、信頼、個体的存在全体の共同性」は家族の契機であるが、これらの契機はゆくゆくは市民社会と国家の活動を支える土台ともなるだろう。
「精神的な絆」とはいわば家族の絆のことであるが、これが「権利」を持ち、「実体的なものとして姿をあらわしてくる」というのは、籍を入れていないパートナーシップが権利を持たないのと対照的であることを考えれば理解しやすいであろう。「情熱の偶然性や一時的な特殊的好みの偶然性」といったものは、結婚以前の独身時代に盛んなものである(いわゆる「一目惚れ」はこの範疇に入るかもしれない)。
ここで「それ自体としては【即自的に】an sich」が強調されているが、「それ自体で【即自的に】an sich」というのは、「独立して【対自的に】für sich」や「絶対的に【即且つ対自的に】an und für sich」とは異なり、潜勢態での、精神以前の自然の段階において、と理解されよう。婚姻において自然性はその権利を持たず、婚姻の結果として生じる「精神的な絆」の解消は容易ならざるものとなる。「即自的」には「精神的な絆」の解消はなされ得ないが、それが「対自的」にも行われる場合には、「精神的な絆」の解消はあり得る(離婚が客観的に認められる場合のように)。
(つづく)