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ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(9)

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

遊び戯れる二つの特殊な事例

Deux passages très déterminés, partiels, particuliers, deux exemples. Mais de l’essence l’exemple se joue peut-être.

きわめて限定された、部分的な、特殊な、二つの移行=件りパサージュ〔passage〕。つまり、ふたつの例。だが、その本性からして、例というものは、遊び戯れ、本質を手玉に取る。

(Derrida1974: 8,鵜飼訳(1)247頁)

デリダは続くパラグラフで、ヘーゲル精神現象学』における「花の宗教」の一パサージュと、ヘーゲル『美学』における「男根柱」の一パサージュを取り上げる。これらのパサージュが「きわめて限定された、部分的な、特殊な二つの移行」であるというのは、換言すれば、あまり一般的な「移行」ではなく、そしておそらくヘーゲリアンでもあまり取り上げることが少ない——変態趣味的マニアックとでもいうべきか——と思われるような「移行」の箇所であることを意味している。

 次のパラグラフに登場するドイツ語の„Übergehen“は「移行」と訳され、フランス語では«passage»と訳されうる。ヘーゲルの術語である「移行 Übergehen」は、或ることがらから別のことがらに移る際の契機として示される。「移行」には何らかの必然性があり、それこそがヘーゲル哲学の「理路」である。

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