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ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(10)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

【左】ヘーゲル

花の宗教

     Premier passage : la religion des fleurs. Dans la Phénoménologie de l'esprit, le développement de la religion naturelle a comme toujours la forme d'un syllogisme : le moment médiat, « la plante et l'animal », comporte une religion des fleurs. Celle-ci n'est pas même une moment, une station. Elle s'épuise presque dans un passage (Übergehen), un mouvement évanouissant, l'effluve flottant au dessus d'une procession, la marche de l'innocence à la culpabilité. La religion des fleurs serait innocente, la religion des animaux coupable. La religion des fleurs (l'exemple factuel en viendrait d'Afrique, mais surtout de l'Inde) ne reste pas, ou à peine, elle procède à sa propre mise en culpabilité, à sa propre animalisation, au devenir coupable et donc sérieux de l'innocence. Et cela dans la mesure où le même, le soi-même (Selbst) n'y a pas encore lieu, ne se donne, encore, que (dans) sa représentaion (Vorstellung). « L'innocence de la religion des fleurs, qui est seulement représentation de soimême sans le soimême, passe dans le sérieux de la vie agonistique, dans la culpabilité de la religion des animaux; la quiétude et l'impuissance de l'individualité contemplative passe dans l'être-pour-soi destructeur. »

 第一の移行=件り。花の宗教。『精神現象学』における自然宗教の展開は、例によって、三段階論理シュロギスモスの形式をそなえている。その媒介の契機、「植物と動物」に、花の宗教なるものが含まれている。この花の宗教は一つの契機でさえない。立ち止まる場所でさえない。それは、ほとんど、移行=通過(Übergehen)のうちで、消え去りゆく運動のうちで、消尽してしまう。ある進行の、無垢から罪へと向かう歩みの上空に漂う香気のようなもの。花の宗教には罪がなく、動物の宗教には罪があるというわけだ。花の宗教(その事実上の例はアフリカ起源であるが、特にインド起源とされている)は残留しない。あるいは、ほとんど、残留しない。それは進んで行く、それ自身の有罪化へ、それ自身の動物化へ、罪のないものが罪のあるものになることへ、無邪気さが真面目さになることへ。そしてこれは、花の宗教においては、同一者が、自己自身(Selbst)が、まだ、その表象(Vorstellung)においてしか、場を持たない、その表象しか自らに与えていない限りのことである。「花の宗教の無邪気さは、単なる自己なき自己の表象であるが、それは闘争的な生の真面目さへ、動物の宗教の有罪性へ移行する。つまり、観照的な個体性の静謐と無力が、破壊的な対自存在へ移行するのである」。

(Derrida1974: 8,鵜飼訳(1)247/245頁)

ヘーゲル式のシュロギスモス(συλλογισμός*1は、アリストテレス式の三段論法とはいささか異なる特徴を有している。例えば「宗教」章は、A「自然宗教」B「芸術宗教」C「啓示宗教」と三つに区分されており、A「自然宗教」はさらにa「ひかり」b「植物と動物」c「工匠」の三つに区分され、そしてB「芸術宗教」はさらにa「抽象的な芸術作品」b「生きた芸術作品」c「精神的な芸術作品」の三つに区分されている。ヘーゲルのテクストにはこうしたトリアーデ(三つ組)が様々な仕方で登場する(即自・対自・即且対自などもヘーゲル式のシュロギスモスだと言えよう)。

 ここでデリダが指摘しているのは、「花の宗教」から「動物の宗教」への「移行」が、残留することなく、躊躇なく進んでいってしまう点である。ヘーゲルがサッサと素早く進んで行ってしまうような箇所にデリダは敢えて注意を向ける。「その事実上の例はアフリカ起源であるが、特にインド起源とされている」とデリダは指摘しているが、その際に重要なことは、アフリカであれインドであれ、いずれにせよ花の宗教の起源が西欧の周辺に位置しているという点であろう。そして「無垢から罪へと向かう」のは、キリスト教における「原罪」の概念を指示しているようにも見える。

 このパラグラフの最後の箇所をデリダはドイツ語でも同時に示しているが、これはヘーゲル精神現象学』「宗教」章、b「植物と動物」の一節からの引用である。

罪もない花弁の宗教は、ただ自己を欠いた表象を「自己」について懐くものであったが、その宗教が真剣に戦う生へ、罪責ある動物の宗教へと移ってゆく。これはつまり、静謐な無力が直観する個体性にはぞくしていたのに、その静謐と無力とが破壊する自立的存在へと移行することである。

(Hegel1807: 643、熊野訳(下)408頁)

植物は、その場所から動けないから植物なのであり、あるいはまた、動物と異なって、「自己 Selbst」を持たないから動かないとも言える。そして植物は、「静謐と無力 Ruhe und Ohnmacht」という受動性を持つがゆえに、したがって何に対しても攻撃することがないから「無罪 Unschuld」である。これに対して、動物はそうした動かぬ植物とは対照的に「破壊的な自立的存在 zerstörende Fürsichseyn」であり、その能動的な行為には「罪責 Schuld」が伴う。

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文献

*1:この点について、狭義にはヘーゲル『大論理学』が参照されるべきである。