まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(4)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

〈絶対知〉とそのテクスト

     Qui, lui? L’aigle de plomb ou d’or, blanc ou noir, n’a pas signé le texte du savoir absolu. Encore moins l’aigle rouge. D’ailleurs on ne sait pas encore si Sa est un texte, a donné lieu à un texte, s’il a été écrit ou s’il a écrit, fait écrire, laissé écrire.

 誰か、彼とは? 鉛のあるいは黄金の鷲が、白鷲あるいは黒鷲が、絶対知のテクストに署名したわけではない。まして、赤鷲が署名したわけではない。そもそもまだ知られていないのだ、〈Sa〉がテクストかどうか、テクストに場を与えたかどうか、それが書かれたかどうか、あるいは、それが書いた、書かせた、書くにまかせたかどうか。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

「鉛のあるいは黄金の鷲、白鷲あるいは黒鷲」というのは、一体何を意味しているのだろうか。これは、直前のパラグラフにある「エンブレム〔象徴〕と化した哲学者 le philosophie emblémi」という語に着目すると、様々な色で示された国章の鷲のことを指しているのではないだろうか。「黄金の鷲」は「サラディンの鷲」とも呼ばれる。「白鷲」はポーランドの国章であり、「黒鷲」はドイツの国章である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6b/Eagles_in_heraldry_-_collage_of_arms_of_Germany_Poland_Mexico_and_Egypt.png

古今東西のヘーゲリアンは、不遜にも自らを「絶対知」の立場に位置づけるようなことはしてこなかった、という意味だろうか。

 デリダは〈絶対知〉の位置付けについて考える。〈絶対知〉というテクストは、例えば、ヘーゲルの『精神現象学』の最後章に登場する。したがって、〈絶対知〉は一つのテクストである。だが、その〈絶対知〉というテクストは、〈絶対知〉の立場から書かれたのであろうか。〈絶対知〉が〈絶対知〉について書くということは、自己言及的なプロセスを経ていることになる。

(右)ジュネ欄

〈残ったもの〉という計算不可能なものの計算可能性

     L’incalculable de ce qui est resté se calcule, élabore tous les coups, les tord ou les échafaude en silence, vous vous épuiseriez plus vite à les compter. Chaque petit carré se délimite, chaque colonee s'enlève avec une impassible suffisance et pourtant l'élément de la contagion, la circulation infinie de l'équivalence générale rapporte chaque phrase, chaque mot, chaque moignon d'écriture (par exemple « je m'éc… ») à chaque autre, dans chaque colonne et d’une colonne à l’autre de ce qui est resté infiniment calculable.

 〈残ったもの ce qui est resté〉の計算不可能性はおのれを計算する。あらゆる打撃クウ*1は入念に仕上げられ、たがいによりあわされ、しずかに組み上げられる。その打撃の数を数えようとしても、数えきれずに疲れ果てるのが落ちである。動じることなき自足をもって、小さな四角はどれもおのれの限界を画定し、欄はどちらも持ち上げられている。それでいながら、伝染の場が、一般的等価の無限の循環が、どの文、どの語、どのエクリチュールの切り株(たとえば «je m'éc…»*2)をも、他のそうしたものへと関係づける。無限に計算可能な〈残ったもの ce qui est resté〉の、それぞれの欄のなかで、そして一方の欄から他方の欄へと。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)248頁)

〈残余〉は計算不可能であるが、その計算不可能なものを計算しようとすると際限がなく悪無限に陥る。

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文献

*1:「このような形で聖化された受贈者に、一撃クウで侵入し、麻痺させる」(Derrida1986: 6,鵜飼訳(1)236頁)。

*2:「『一幅のレンブラントから残ったもの』はその二本の欄柱に展開する、主体ーー「どんな人も他の人と等価である」ーーの、諸項の、際限なく交換される反対物の、«je m'éc…»(「私は流れ込んだ」〔je m'écoulais〕、私の体に、他者の体に)の一般的等価の理論あるいは出来事を。S'écouler〔流れ込む〕という連辞は、l'«écoeurement»〔吐き気〕、le«regard échangé»〔交わされたまなざし〕、le«sentir s'écouler»〔流れ込むのを感じること〕、«je m'étais écoulé»〔私は流れ込んだ〕、«j'écrivais»〔私は書いた〕に引き継がれる。私は私を書いた、「これほどの吐き気」、「悲しみ」(この言葉は十ページたらずのうちに六回も使われている)のなかで。それは、逆さまに見つめあう二本の柱の、無限の交換の理論あるいは出来事である。」(Derrida2021:52-53,鵜飼訳(7)274、272頁)。