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ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(7)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

ヘーゲルの署名と〈絶対知〉のコルプス

     Sa signature, comme la pensée du reste, enveloppera ce corpus mais n'y sera sans doute pas comprise.

 彼の署名は、残余の思考と同じく、この資料体コルプスを包みこむだろう。だが、多分、そこには、含まれないだろう。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)247頁、訳は改めた)

ここでは「彼の署名」と「この資料体」とのいわば包含関係が問題となっている。「包みこむ」が「含まれない」とはどういう状況であろうか。それはあたかもキャンディを包み込むセロファン紙のような関係であろうか。あるいはペットボトル飲料のような、容器と中身の関係とも言えようか。確かに「麦茶」とか「ジュース」とラベルが貼られた容器の中身が、詰め替えられた後のただの水(H2O)だということもあり得る話だ。

 或る資料体の上に、ヘーゲルが自身の名前を署名するとしよう。そうすると、彼の署名が著者名としてその資料体を包摂することになる。「だが mais」、彼の署名がその資料体の中身・内容に直接関わるわけではない。彼の署名は「多分、そこには、含まれないだろう n'y sera sans doute pas comprise」。ここで「多分 sans doute」というのは、例えば、自伝のように著者自身がその中に直接登場する可能性もゼロではないからであろう。

 ちなみにデリダが「この資料体コルプス」を「テクスト」ではなく「コルプス」*1と呼んでいる理由は何故であろうか。その理由は、おそらくデリダが直前に述べているように、「〈Sa〉が一つのテクストかどうかまだわからない on ne sait pas encore si Sa est un texte」からではないか。

「残余の思考」と「思考するための残余」

 デリダは「残余の思考と同じく comme la pensée du reste」と述べているが、この「残余の思考 la pensée du reste」は一体何を意味しているのだろうか。その手がかりとしてデリダはこのパラグラフに付された注の中で次のように述べている。

reste à penser : ça ne s'accentue pas ici maintenant mais se sera déjà mis à l'épreuve de l'autre côté. Le sens doit répondre, plus ou moins, aux calculs de ce qu'en termes de gravure on appelle contre-épreuve

思考するための残余。それは、ここで、今、強調されるのではなく、反対側の検証=試練〔épreuve〕に、すでに、身を晒しているだろう。この意味は製版の用語で逆版刷り〔contre-épreuve〕と呼ばれるものの計算に、多かれ少なかれ、対応しなければならない

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)247頁)

「〜するためにとどまる rester à + inf.」と動詞の「思考する penser」が組み合わさって「思考するための残余 reste à penser」という意味になる。「思考するための残余 reste à penser」とは、つねに思考の余地を残しておく、ということである*2。このことがデリダのいう「残余の思考 la pensée du reste」ではなかろうか。

 «Ça»は«cela»の短縮形で「それ」という意味である。«Ça»は、本書で〈絶対知 savoir absolu〉の略号とされている«Sa»と同じ発音である。同じ発音であるからといって、«ça»と«Sa»に何らかの連関があるのかといえば、その点はよくわからない。おそらくデリダは、フロイトが名指しがたい〈それ〉を「イド id」「エス Es」と呼んだようなしかたで、〈Sa〉をまるで「それ Ça」のように用いているのではないだろうか。この点に関してスピヴァクは次のように指摘している。

デリダは『弔鐘』の中でヘーゲルの「絶対知 savoir absolu」を一貫して Sa と略記している。これは Ça(イド、エス)の誤記、シニフィアンのフランス語での略号であるばかりでなく、女性形の対象に付く所有代名詞でもある。その対象はこの場合は名指されていない。ヘーゲルによって明確化された絶対知は、名指されない[名づけえない][女性的なもの](“chose féminine”)[女性的なもの——あらゆる意味で]への意志の内部に捕らわれているのかもしれない

スピヴァク2005:80)

スピヴァクの読解で重要なのは、Saが「女性形の対象に付く所有代名詞」という点に着目したことである。だが、そのさい、「名指されない《女性的なもの》への意志の内部に捕らわれている」のは誰であろうか。ヘーゲルか?それともデリダか?そもそも「絶対知 Das absolute Wissenschaft」(中性名詞)というドイツ語でヘーゲルは書いたのであって、それをSaというフランス語の略号にしたのはヘーゲルではなく、デリダである。であるならば、「名指されない《女性的なもの》への意志の内部に捕らわれている」のはデリダに他ならないのではないだろうか。

 「反対側の検証 l'épreuve de l'autre côté」とは、ここでは要するに、ヘーゲル欄に対するジュネ欄のことであろう。ヘーゲル欄の外部には、まだ考える余地が残っている。その余地を埋めるようにして、ジュネ欄が存在する。したがって本書では、ヘーゲル欄とジュネ欄とはそれぞれたがいに無関係に併記されているのではない。ヘーゲル欄とジュネ欄とは「たがいに交差=一致する」ことが計算されており、「残余の思想」を実践するものである。この点について詳しくは、まさに右のジュネ欄を検討しなければならない。

(右)ジュネ欄

交差=一致する、残余の二つの機能

     Il y a du reste, toujours, qui se recoupent, deux fonctions.

 残余には、そもそも、残余には、つねに、たがいに交差=一致する、二つの機能がある。

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)246頁)

先に見た左のヘーゲル欄では、「思考されるにまかせることと署名されるにまかせること、この二つの操作は、おそらく、どんな場合にも、けっして交差=一致することはありえない」(Se laisser penser et se laisser signer, peut-être ces deux opérations ne peuvent-elles en aucun cas se recouper.)と述べられていたが、このことは、「残余 reste」の「二つの機能 deux fonctions」が「たがいに交差=一致する se recoupent」と述べられているのとは対照的である。換言すれば、デリダが左のヘーゲル欄では〈たがいに交差し得ないもの〉について論じているのに対して、右のジュネ欄では〈たがいに交差するもの〉について論じているようにも見える。

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文献

*1:「コルプス」とは「肉体、身体」のことであり、キリスト教的にいえば、受肉するところのそれである。「コルプス・クリスティアヌム corpus christianum」という場合は、「キリスト教共同体」を意味する。

*2:「思考するための残余 reste à penser」は、いわゆる「エポケー ἐποχή」(判断を保留すること)と似ているようにも見える。