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フーコー「社会医学の誕生」覚書(1)

目次

はじめに

 以下ではフーコー社会医学の誕生」(Michel Foucault, El nacimiento de la medicina social, 1977)を読みます。このテクストを読むことになったきっかけは、先日「ヘーゲルと医学」というテーマで少し書き始めたことでした。「医学」というディシプリンの成立について哲学的に考察したのはミシェル・フーコーMichel Foucault, 1926-1984)でした。それゆえ、「ヘーゲルと医学」というテーマで書き進めるにあたって、フーコーのテクストを虚心坦懐に読み解いた時に、フーコーが「医学」についてどのようなことを述べているのかということは、少なからず押さえておく必要があるだろう、と私は考えました。

 ちなみにこのテクストはスペイン語で書かれており、フランス語版は原文ではなく翻訳なのだそうです(前川2021)。

フーコー社会医学の誕生」

資本主義社会における身体と医学

 フーコーは「社会医学の誕生」を論ずるにあたり、資本主義社会における「身体」と「医学」の変容に着目します。

 Mi hipótesis es la siguiente: con el capitalismo no se dio el paso de una medicina colectiva a una medicina privada, sino justamente lo contrario; el capitalismo, desarrollándose a fines del siglo XVIII y comienzos del siglo XIX, socializó un primer objeto que fue el cuerpo como fuerza de producción, fuerza de trabajo. El control de la sociedad sobre los individuos no se opera simplemente, por la conciencia o por la ideología sino que se comienza en el cuerpo, con el cuerpo. Fue en lo biológico, en lo somático, en lo corporal antes que todo, que invirtió la sociedad capitalista. El cuerpo es una realidad bio‐política. La medicina es una estrategia bio‐política.

 資本主義によって人々は集団的医学から私的医学に移行したのではなく、まさにその正反対のことが起こったのだ、というのが私の仮説です。十八世紀末と十九世紀初頭に発達した資本主義は、生産力と労働力にしたがってまず身体という第一の対象を社会化します。社会による個人の管理は意識やイデオロギーによって行われるだけでなく、身体の内部で、身体とともに行われるものでもあります。資本主義社会にとって何よりも重要なのは生゠政治的なものビオ・ポリティカであり、生物学的なもの、身体的なもの、肉体的なものです。身体とは生゠政治的なビオ・ポリティカ現実であり、医学とは生゠政治的なビオ・ポリティカ戦略にほかなりません。

(Foucault1977: 91,小倉訳169頁)

「資本主義社会」という括りは、マルクスのいう「資本主義的生産様式が支配的に行われている社会」のことを意味していると理解して良いでしょう。「資本主義社会」とは「生産様式」に基づく区分です。フーコーマルクスを全面に出していませんが、我々が「資本主義社会」について考えるとき、マルクスの研究成果を抜きにして考えることは到底不可能です。「資本主義社会」とはそれ自体が近代的カテゴリーに属しますから、「資本主義社会」を手掛かりにフーコーが分析する「社会医学」もまた近代的カテゴリーに他ならないと言えるでしょう。

 「資本主義によって人々は集団的医学から私的医学に移行したのではなく、まさにその正反対のことが起こったのだ」という仮説を示す直前に、フーコーは「十八世紀末モルガーニ*1からビシャ*2にいたる間に、病理解剖学の導入によって生まれた近代科学医学が個人的なものなのかどうなのか」という点を問題にしています。ビシャが『生と死に関する生理学的研究』(Recherches physiologiques sur la vie et la mort, 1800)を出版した頃は、「ビシャは自分の私塾のほかには働く場所をほとんど与えられていなかった」(作田2008)といいますから、フーコーがいう「私的医学」というのは、私塾のようなところで医者が個別に行っている医学のことを指しており、これに対して「集団的医学」というものが国家権力を通じてなされる医学のことを指していることがわかります。

 ちなみに近代医学以前の医学、例えば古代医学についてはどのように考えられていたのでしょうか。フーコーは次のように述べています。

 Se encuentra frecuentemente, en ciertos críticos de la medicina actual, la idea que la medicina antigua-griega y egipcia o las formas de medicina de las sociedades primitivas, son medicinas sociales, colectivas, no centradas sobre el individuo. Mi ignorancia en etnología y egiptología me impide opinar sobre el problema. El poco conocimiento que tengo de la historia griega, me deja perplejo pues no veo cómo se puede decir que la medicina griega era colectiva y social.

 しばしば指摘されるように、現代医学の批判者のなかには、古代医学——ギリシアやエジプトの医学——あるいは未開社会における医学の諸形態は、社会的で集団的な医学であり、個人を中心にするものではないと主張するひとがいます。私は民俗学エジプト学にはむちなので、この問題について意見を述べることはできません。しかしギリシア史にかんして私の知るかぎり、この考えには当惑させられますし、ギリシアの医学をどうして集団的な、あるいは社会的な医学と呼ぶのか分かりません。

(Foucault1977: 90,小倉訳168頁)

小倉訳では「未開社会における医学の諸形態 las formas de medicina de las sociedades primitivas」と訳されていますが、少なくとも古代ギリシアやエジプトにおいて「医学」が存在する社会でそれを「未開」と訳すのは明確に誤りではないかと思います。フーコーが「資本主義社会」というキーワードを用いていることから推察すると、それには「原始共同体 las sociedades primitivas」という訳が妥当かと思います。

 フーコーの批判は、もし古代社会における医学が「社会的で集団的な医学」なのだとすれば、そこでは社会統計に基づく統治が行われていたことになるが、実際には全然そうではなかったではないか、というものです。

 この後フーコーは「社会医学」の発展段階を(1)「国家医学 medicina de Estado」、(2)「都市医学 medicina urbana」、(3)「労働力の医学 medicina de la fuerza de trabajo」の三つに区分しています。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:ジョヴァンニ・バッティスタ・モルガーニ(Giovanni Battista Morgagni, 1682-1771)。「近代解剖病理学の父」と呼ばれる。彼が80歳になった1761年に発表した『解剖によって明らかにされた疾病の位置および原因』(De sedibus, et causis morborum per anatomen indagatis, 1761)が高い評価を受け、病理解剖学の分野を切り開く。

*2:マリー・フランソワ・グザヴィエ・ビシャ(Marie François Xavier Bichat, 1771-1802)。「近代組織学の父」と呼ばれる。著書に『生と死の生理学研究』(小松美彦・金子章予訳、所収『生と死 生命という宇宙』国書刊行会、2020年)がある。「ビシャの重要な業績は、肺や心臓などの器官(臓器)の会区分である組織(tissu)に病変を見出したことだ。例えば、結核による病変が肺を取り巻く胸膜に見出される。胸膜は漿液を分泌する漿膜性の組織だが、心臓を取り巻く心膜もやはり漿膜性である。そして心膜にも、胸膜と同じ結核の病変が見出される。このようにして、肺や心臓という特定の器官(臓器)にではなく、漿膜性の組織というレベルにおいて病変が見出される。かくして、病気の座が特定の器官にではなく、いくつかの器官にまたがって見出されるのだが、組織というレベルで見ると、そこには同じ性質が見られる。」(北垣徹「権力の新たなエコノミー」395〜396頁)。