目次
はじめに
約1年前に成田悠輔氏が「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」と提唱したことに関して、Twitter上で批判が飛び交っている。
>(高齢者は集団自決しろ) あれは「言ってはいけない」ことでした。しかし、(中略)「言ってはいけないとされていることはだいたい正しい」とも思っています。
— 運動した医 (@drpsychosomatic) 2023年1月12日
自殺を推奨するような発言が正しいと思っているという、倫理崩壊感がヤバイというのに気付けてない。 https://t.co/Zeko7oVWr4
成田悠輔の発言「高齢者は集団自決すべき」は、よしんばレトリックに過ぎないと仮定しても、人としての倫理を大きく踏み外している点でダメ。
— 若林宣 (@t_wak) 2023年1月11日
成田悠輔さんの高齢者「集団自決」論が話題ですが、そのお考え自体は、倫理学では一定の規範とされている考え方。https://t.co/tchmemq5My
— みわよしこ/Yoshiko Miwa, a journalist (@miwachan_info) 2023年1月11日
思考実験フィクションとして小説化も(ただし失敗。日本、2007年)。https://t.co/bOZmpbU4ga
私自身は反対ですが、素朴な怒りで勝てる相手ではありません。 https://t.co/GOt7SEmTdG
集団自決が炎上していて
— 税は財源ではない。ツイデモ(#政府の赤字はみんなの黒字)14日土曜21時半スタート! (@zeizaigennai) 2023年1月12日
寧ろ成田悠輔は内心喜んでんじゃねーかとすら思えてくる。
倫理観VS経済的合理性
の争いみたいになってるけど
成田の主張は両方ともダメだということを主張する必要がある。
経済的合理性があると勘違いされてるからこのような思想が蔓延るのだから。
以上のツイートから読み取れるように、たとえ成田氏が「集団自決」という語をレトリックとして用いていると理解されていても、その発言はけっして容認し難く、彼の倫理観が欠如しているものとして受け止められている。
成田悠輔「集団自決」発言の文脈
いずれにせよ成田氏の「集団自決」発言の文脈を押さえておく必要がある。経営者をはじめとする高齢者の重鎮は、偉い地位を確立し手厚い給与という特権を保障されている。にもかかわらず、実際には平社員よりもすでに生産性が低く、場合によっては理解できない事柄に頓珍漢な横槍を入れることで組織の生産性を落とすような——これを「老害化」と呼ぶ——存在である。そのような高齢男性が優遇される階級社会の問題点を解決するために、「高齢者は老害化する前に集団自決、集団切腹みたいなことをすればいい」(ここで成田氏が「すべき」と述べていない点には注意されたい)と成田氏は述べるわけである。
「【成田悠輔×堀江貴文】高齢者は老害化する前に集団切腹すればいい?成田氏の衝撃発言の真意とは」(HORIE ONE, YouTube, 2022/02/01)
成田氏の「集団自決」という言葉に対して実際に多くの人々が反応を示した(もちろん筆者もその一人である)。
「口にしちゃいけないって言われてることは、だいたい正しい」
成田氏のTwitterアカウントのbio(自己紹介)の欄には「口にしちゃいけないって言われてることは、だいたい正しい」と書かれている。「口にしちゃいけないって言われていること」は、基本的には親や教師、先輩等の教育を通じて学ぶことがらであって、それゆえ誰からも指導を受けていなければ「口にしちゃいけないって言われていること」が何なのかというのは知らないはずである。「口にしちゃいけないって言われていること」は条件反射的に我々の思考と言語体系に幼少期から刷り込まれるものであり、そのことを自覚できるかどうかという点に関しては大いに怪しいところがある。直感には反するが、順を追って論証されれば正しいこととして認識されうる事柄がたくさんある。
「高齢者は集団自決すべき」は「人としての倫理を大きく踏み外している」のか?
若林宣氏の発言に対して述べておく。Twitterでも同様のことを述べたので繰り返しになるが、「高齢者が集団自決「すべき」か否か」は「道徳」的命題ではあるが、「老害化する前に生産性の低い経営者や重鎮がみずから集団自決することを社会問題の解決策として提唱すること」は「倫理」の枠内で議論されるべき問題ではあると考える。ちなみに、ここで「道徳 Moralität」と「倫理 Sittlichkeit」の区別は、ヘーゲル『法の哲学』におけるそれらに基づいている。
「高齢者は集団自決「すべき」である」という肯定的命題、あるいは「高齢者は集団自決を「すべき」ではない」という否定的命題のいずれも、それらは表裏一体の「道徳」の枠内での問題であり、「倫理」の枠内での問題ではない。「高齢者は集団自決す“べき”である」という「道徳」的命題が「人としての「倫理」を大きく踏み外している」というのでれば、それは「道徳」と「倫理」とが区別される限りにおいてその通りだと言える。
老害化する「前」と老害化した「後」
成田氏は「高齢者は老害化した「後に」集団自決」するのではなく「老害化する「前に」集団自決」することを提唱している。「老害」とは、理性を失い、周囲に不適切に介入することによって害悪を撒き散らす存在である。もし理性を失って「老害」化してしまったら、彼らはもはや人間とは呼べず、むしろ動物に近い存在になる(〈動物化する老人たち〉とでも言おうか)。ヘーゲルは人間と動物の違いとして、人間は自殺できるが動物は自殺できないという点をあげている。人間が自殺できるのは理性があるからであり、動物はそうでない。「高齢者が老害化した「後に」集団自決」することは、老害化が動物化と同義である限りで、それは不可能なのである。