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ジャック・デリダ『弔鐘』覚書(5)

目次

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ジャック・デリダ『弔鐘』(承前)

(左)ヘーゲル

略号とコード

Sa sera désormais le sigle du savoir absolu. Et l’IC, notons-le déjà puisque les deux portées se représentent l’une l’autre, de l'Immaculée Conception. Tachygraphie proprement singulière : elle ne va pas d’abord à disloquer, comme on pourrait croire, un code c'est-à-dire ce sur quoi l’on table trop. Mais peut-être, beaucoup plus tard et lentement cette fois, à en exhiber les bords

Sa〉は、これ以後、絶対知 savoir absolu の略号となる。そして〈IC〉が無罪障のお宿り Immaculée Conception の略号となることも前もって記しておこう、この両者の射程はたがいに代理=表象しあうから。この奇妙なとしか言いようのない速記法は、そう思われかねないとはいえ、コードの、すなわち過度に信頼されているものの分解を、まず第一に目指すのではない。だが、おそらく、ずっとのちに、そのときはゆっくりと、コードの縁の数々を晒し出すことになるだろう

(Derrida1974: 7,鵜飼訳(1)249頁)

このパラグラフは、本文に〈Sa〉が登場するちょうど真横に並べられている。デリダによれば、〈Sa〉とは「絶対知 savoir absolu」の頭文字をつなげて作った略号である。デリダは略号の例としてもう一つ、〈IC〉を取り上げる。〈IC〉は、ここではいわゆる「無原罪懐胎 Immaculata Conceptio」の略号であり、これは文字通りには「汚れなき概念」を意味する。「無原罪懐胎」は、聖母マリアがその懐妊において原罪を免れたとするカトリックキリスト教教義学の解釈を含む概念であり、これをテーマとする絵画も多数存在する。

     What would the Immaculate Conception have to do with these little letters?

 無原罪懐胎=汚れなき概念、大文字で始まる〈Immaculée Conception〉が、あの小さな文字たちと、どんな関係があるというのか?

(Derrida2021: 67,鵜飼訳(10)272頁)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/24/Bartolom%C3%A9_Esteban_Perez_Murillo_021.jpg

(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『エル・エスコリアルの無原罪懐胎』1660-65年頃、プラド美術館

「無原罪懐胎」の恣意性

 ちなみにデリダはこの「無原罪懐胎 Immaculée conception」に関連してか、本書の右側のジュネ欄で次のように述べている。

sibylline effect of arbitrariness in the immaculate choice, in the conception of syllables that name and open glory.

汚れなき〔immaculée〕選択における恣意性、栄光を名指しかつ開く音節の数々の思いつき゠懐胎〔conception〕における恣意性の、神託的効果。

(Derrida2021: 13,鵜飼訳294頁)

ここで「恣意性」という言葉が出てくるが、左側のヘーゲル欄でデリダは「ここでヘーゲルは、ある種の記号の恣意性について自説を述べる」(297頁)と述べ、ヘーゲルのMoralitätとSittlichkeitという言葉の恣意性について言及している。

He then explains the passage from Moralität to Sittlichkeit and tries to justify the all but arbitrary choice of these two words. It is because this choice is arbitrary that the translations waver.

彼はそのとき、道徳性(Moralität)から人倫(Sittlichkeit)への移行を説明し、この二つの語の、ほとんど恣意的な選択を正当化することを試みる。翻訳が定まらないのは、この選択が恣意的だからである。

(Derrida2021: 13,鵜飼訳297,295頁)

速記法のアンビバレントな両側面

 「速記法 tachygraphie」という語は、古代ギリシア語の〈ταχύς 速い〉に由来する。略号を用いるのは、もともとは羊皮紙のような書くための資源が枯渇していたからであり、数多くの宗教上の観念が略号によって示されてきた。一方で、それは、弁論をすばやく書き取るためのものとしても用いられてきた。国会答弁は専門家によって記号を用いてすばやく記録される。古くはソクラテスキケロの弁論が速記術で書き記されたと言われる。

 速いことと遅いこととは、対照的である。デリダが「ずっとのちに、そのときはゆっくりと」と述べる際、デリダは「速記法」の速効性と遅効性というアンビバレントな両側面に言及したのではないだろうか。

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