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真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

『源氏物語』「宿木」覚書(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

源氏物語

宿木(承前)

藤壺はなぜ物怪に煩い始めた

『校異源氏物語』巻五、1701頁

『校異源氏物語』巻五、1702頁

十四になり給ふ年、御裳着せ奉りたまはんとて、春よりうちはじめて、他事なくおぼしいそぎて、何事もなべてならぬさまにとおぼしまうく。いにしへより伝はりたりける宝物ども、このをりにこそはと探し出でつゝ、いみじくいとなみ給ふに、女御、夏ごろ、ものゝけにわづらひ給ひて、いとはかなく亡せ給ひぬ。言ふかひなくくちをしき事を内にもおぼし嘆く。心ばへなさけ〱しく、なつかしきところおはしつる御方なれば、殿上人どもも、

「こよなくさう〲しかるべきわざかな。」

とをしみきこゆ。大方さるまじき際の女官などまで、しのびきこえぬはなし。

(『源氏物語(八)』「宿木2」岩波文庫、70頁)

 

宮の十四におなりになる年に裳着の式を行なおうとして、その春から専心に仕度をして、何事も並み並みに平凡にならぬようにしたいと女御は願っていた。自家の祖先から伝わった宝物類も晴れの式に役だてようと捜し出させて、非常に熱心になっていた女御が、夏ごろから物怪に煩い始めてまもなく死んだ。残念に思召されて帝もお歎きになった。優しい人であったため、殿上役人なども御所の内が寂しくなったように言って惜しんだ。直接の関係のなかった女官たちなども藤壺の女御を皆しのんだ。

(與謝野晶子訳)

ここで描かれているのはたんなる藤壺の死ではない。藤壺が周囲の人々にどれだけ慕われていたかという、藤壺女御その人徳が伝わってくる。藤壺は自身については不幸な「宿世」と受け止めていたが、それがかえって周囲の人々への気遣いにつながっていたのかもしれない。

 金賢貞によれば、「宿木」巻に出てくる「物怪」はこの一箇所のみであるという(金1996)。藤壺が「物怪」に煩って死んでしまったタイミングは、女二宮が14歳という結婚適齢期にさしかかった場面においてであった。「物怪」はここでは得体の知れない何かであって、それ以上に藤壺の死の原因を遡求することはできないが、しかし一方で「いにしへより伝はりたりける宝物ども、このをりにこそはと探し出でつゝ、いみじくいとなみ給ふ」たことが、藤壺の死と背中合わせの「宿世」であったように思われる。つまり藤壺は女二宮の結婚による幸せを目指してより一層の努力を行なった矢先に亡くなったのであり、それは彼女の不幸な宿命である「宿世」に相反するものだと彼女自身が心理的に受け止めていたからこそ、その行動が結果として藤壺が目指した幸せとは逆の方向にはたらいてはたらいてしまった描写とも理解できよう。

 「いにしへより伝はりたりける宝物」を藤壺が女二宮に伝授することは、自らの不幸な「宿世」をも含めて伝授することになるわけであるから、自らの不幸を相続させることにもなりかねない。そうした考えが藤壺の頭をよぎったかどうかは明らかではないが、與謝野晶子がいみじくも「物怪に煩い始めて」と訳しているように、「煩(わずら)う」という感じは「煩悩」の「煩」であり、藤壺がフィジカルな病気を「患(わずら)って」死んだとは描かれていない点に注意すべきであろう。したがってそれは「物煩い」の類であり、何に藤壺が悩まされていたかを考慮するならば、それは「宿世」に対する心持ちに他ならないであろう。

(つづく)

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