まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『精神現象学』覚書:「Ⅴ 理性の確信と真理」篇(1)

目次

はじめに

 以下ではヘーゲル精神現象学』の「Ⅴ 理性の確信と真理」を読む。前回「Ⅵ 精神」の冒頭を取り扱ったが、その箇所を詳しく説明するには「Ⅴ 理性の確信と真理」を同時に取り扱う必要があった。なので、こちらも同時並行してその論理を追うことにする。

ヘーゲル精神現象学

Ⅴ 理性の確信と真理

「Ⅴ 理性の確信と真理」の導入としての「不幸な意識」の振り返り

「Ⅴ 理性の確信と真理」の冒頭も以前の箇所の振り返りからはじまっている。

意識は、個別的な意識がそれ自体としては絶対的な実在であるとする思想を把握することで、じぶん自身のうちへと立ちかえってゆく。不幸な意識に対しては、自体的に存在するものはじぶん自身の「彼岸」である。

(Hegel1807: 162,熊野訳(上)368頁)

「不幸な意識」は、「Ⅳ 自己自身の確信の真理」の終盤において一つの主体として登場する概念である。したがって、この箇所に関して詳しくは「Ⅳ 自己自身の確信の真理」を読むことが望ましいだろう。だが、この箇所が「不幸な意識」の単なる反復ではなく、「Ⅴ 理性の確信と真理」の導入として位置付けられているというその意義については多少の考察が必要であろう。実際、「Ⅳ 自己自身の確信の真理」の最終部には「Ⅴ 理性の確信と真理」への移行が次のように語られていた。

しかしながら、この〔彼岸〕という対象においては、意識にとってその行為と存在は、この個別的な意識のものであるにしても、存在と行為それ自体であるから、この対象のなかで意識にとっては理性の表象が生成している。理性とはつまり意識が確信したありかたなのであって、その確信しているところとは、意識はその個別性においてそれ自体として絶対的なものであり、ことばをかえればいっさいの実在性であるというものなのだ。

(Hegel1807: 161,熊野訳(上)366頁)

意識が確信することで「理性の観念」が生じてくる。「Ⅴ 理性の確信と真理」が「Ⅳ 自分自身のの真理」の後に位置付けられて展開されるのにはそうした必然性がある。

(つづく)

文献