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ヘーゲル『精神現象学』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

「思いなし」が見出す矛盾

 同様にまた,或る哲学的労作が,対象をおなじくするいくつかのべつの努力に対して立っていると信じられる関係を規定してみるとしよう.その場合でも種類をことにする関心が引きいれられて,真理を認識するさいに重要なことがらが冥がりに閉ざされてしまう.真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなしがあるがゆえに,そうした思いなしによればまた,なんらかの現にある哲学的体系に対して賛成なのか,それと矛盾しているのか,〔その説明〕だけが期待されるのがつねとなる.こうして,そのような体系をめぐって説明をくわえようとしても,賛否のどちらかだけを見てとろうとするものなのである.そのような思いなしがあると,哲学的体系どうしの相違は,真理がしだいに発展してゆくすがたとして把握されずに,むしろそうした相違のなかにひたすら矛盾のみがみとめられることになる.

Hegel1807: ⅲ,熊野訳(上)12頁)

前回までのパラグラフでは,〈哲学的な学問というものは単なる知識の寄せ集めではない〉というヘーゲルの思想が示された.続いてここでは二項対立を固定的なものとみなす考え方——もっと言うと「Aは同時にAでありかつ非Aではあり得ない」という矛盾律——が批判されている.

 ここでとりわけ注目したいのが,「思いなし Meynung 」という言葉である.山口誠一によれば,この「思いなし Meynung 」という語で観念されているものは,ギリシア語の「ドクサ δόξα 」であるという.

ここでは,このような関心を抱く当事者,結局は,真と偽の対立を固定する当事者を,「思いこみ」(Meinung)と呼んでいる.これは,いうまでもなくギリシア語のドクサのドイツ語である.しかるに,ドクサは,臆見,独断そして思いなしとも訳され,命題の形式をとる.したがって,真と偽との対立を固定するとは,真理を命題形式で,偽を排除して表現することである.

山口2008:11)

 では,どうして「真なるものと偽なるものとの対立は固定されているとする思いなし」は,両者の相違のうちに矛盾ばかりをみとめるのであろうか.それは,いわば事物の変転を見逃しているからである.ヘーゲルが「真理がしだいに発展してゆくすがた」と述べているように,形態の流動的な変化の全体を〈真理〉として認めるような大局観こそが肝要なのである.

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