まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(2)

目次

読書前ノート(承前)

岩波哲男『ヘーゲル宗教哲学入門』(理想社、2014年)

 神保町の三省堂書店でたまたま本書を見つけて手に取った。ヘーゲルの著作の背後には、常に宗教性(とりわけキリスト教の)が垣間見える。それは『精神現象学』であれ、『論理学』であれ、『エンツュクロペディー』であれ、『法哲学』であれ、そうである。それはヘーゲルの生活圏がキリスト教的だったからだ。日本で生まれ育った私たちがヘーゲルを読む際に気をつけなければならないのは、書き手にも読み手にも共通認識として背後に前提とされているキリスト教的なあり方ではないか。アカデミズムに所属する者たちがいくらヘーゲルの著作に合理的論理的な解釈を施そうとも、書物の外にあるキリスト教的・宗教的前提は無視し得ないであろう。その意味では、ヘーゲル宗教哲学について理解することなしに、『精神現象学』や『論理学』や『法哲学』の合理的に理解しやすいところだけに取り組んでいてはヘーゲル解釈としては常に不十分なのではないか。ヘーゲルの著作は明らかにローコンテクストではなく、ハイコンテクストな叙述に満ち溢れているのだから。

 余談だが、かつてモーリス・メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty, 1908-1961)は「ヘーゲル精神現象学は小説のように面白い」と述べたそうである(竹田青嗣西研の著作にそう書いてあった)。というか、誰がヘーゲル精神現象学を小説ではないと言えるだろうか。いや、むしろ『精神現象学』は小説なのではないか、と考えた方がすっきりするのではないか。ある種のビルドゥングスロマンだという指摘もしばしばなされてきたのではなかったか。そもそも小説と哲学書の違いは何であるか。叙述様式の違いであろうか。もし『精神現象学』が哲学書の装いをした小説なのだと考えると、小説を読み解く手法が『精神現象学』の読解に応用できるのではないか。廣野由美子(1958-)は小説読解の技法として次のものを挙げている。「1、プロローグ、2、題辞、3、語り手の介入、4、パノラマ、5、会話、6、手紙、7、意識の流れ、8、象徴性、9、ミステリー/サスペンス/サプライズ、10、マジック・リアリズム、11、ポリフォニー、12、部立て/章立て、13、クライマックス、14、天候、15、エピローグ」(廣野由美子『小説読解入門』中央公論新社、2021年)。これらすべての技法を使いきることは難しいだろうが、例えば「3、語り手の介入」などはヘーゲルが『精神現象学』で——ときに"für uns"などと言いつつ——よく使う技法である。「1、プロローグ」については、まさにそれを主題にしたものが「序文 Vorrede 」で語られたりもする。「7、意識の流れ Stream of consciousness 」は、アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズ(William James, 1842-1910)の用語らしいが、これもまさにヘーゲルが『精神現象学』で多用する技法である。メルロ=ポンティが述べた『精神現象学』の小説のような面白さとは、もしかするとジェイムズ・ジョイス(James Joyce, 1882-1941)の『ユリシーズ』(Ulysses)を読むような面白さなのかもしれない。

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