目次
はじめに
以下の内容は私が参加しているヘーゲル『精神現象学』読書会予習のためのメモであり,第三者に読まれることは想定していない.
ヘーゲル『精神現象学』
精神
啓蒙の主張
第一に啓蒙は,意識の行為であるという概念の契機を主張する.啓蒙は信仰に対して次のように主張する——その〔信仰にとっての〕絶対的な実在は,一つの自己としてのその〔信仰の〕意識にとっての実在であり,すなわちその実在は,意識によって産み出されたものである,のだと.
(Hegel1807:515,熊野訳217頁,訳は改めた)
信仰にとっての絶対的実在者は神であるが,実はそれが「信仰の意識」という「一つの自己」が生み出したものである.かくして啓蒙は,信仰を「意識の行為 Thun des Beustseyns 」として指摘する.後続の文ではこのことがさらに詳しく展開されている.
信仰する意識にとって,その〔信仰する意識の〕絶対的な実在は,それが信仰する意識にとって即自であるにもかかわらず,同様にまた同時に,疎遠な事物といったものではない.つまり,意識のうちに立っていながら,どのようにどこから到来したのか分からない事物ではない.むしろ信仰する意識が〔絶対的な実在に〕よせる信頼がなりたつのは,ほかでもなく,自身をこの人格的な意識として実在のうちに見いだすことによってなのである.つまり信仰する意識の服従と奉仕*1が存立するのは,実在をその絶対的な実在として,みずからの〔個人的意識の〕行為をつうじて産出することにおいてなのだ.
(Hegel1807: 515,熊野訳217頁,訳は改めた)
「信仰意識にとって,その絶対的実在が疎遠な事物ではない」のは,まさにその「絶対的実在」を生み出したのが「信仰意識」自身であって,故にそれは「信仰意識にとって即自 Ansich 」すなわち〈みずからのもとにある an sich 〉のである.絶対的実在がどこから到来したかといえば,それは「信仰意識」自身から,なのである.神のような絶対者への服従は,信仰心が生み出したのである.