目次
はじめに
以下ではヘーゲル『精神現象学』の「Ⅵ 精神」を読む。「Ⅵ 精神」の箇所は何度読んでも大変難しく、パラフレーズできるか心許ない。なので私自身の読解の深化とともに内容は適宜修正していくつもりである。
ヘーゲル『精神現象学』
Ⅵ 精神
「Ⅵ 精神」の導入としての「Ⅴ 理性の確信と真理」の振り返り
ヘーゲルは「Ⅵ 精神」の冒頭で「Ⅴ 理性の確信と真理」までの箇所で考察された部分の振り返りを行なっている。ただしその際、ヘーゲルは単に前の箇所を振り返るのみならず、「Ⅵ 精神」の導入として、いかにして「Ⅴ 理性の確信と真理」から「Ⅵ 精神」に移行するのかについて語っている。
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【樫山訳】
理性は、全実在であるという確信が、高まって真理となり、自己自身を自分の世界として、また世界を自己自身として、意識するようになったとき、精神である。
【熊野訳】
理性が精神となるのは、「いっさいの実在性である」とする確信が真理まで高められたときである。つまりそのばあい理性は、じぶん自身をみずからにとっての世界として、また世界をじぶん自身として意識することになる。
(Hegel1807: 376)
「理性が精神である Die Vernunft ist Geist」のは、「indem」以下の場面においてである、という文構造になっている。「indem」は「und der Welt als ihrer selbst bewust ist.」までかかる。
ここで注意しなければならないのは、「である ist」とか「真理 Wahrheit」といったものを何か絶対的で固定的なものとみなしてはならないという点である。この生成変化の契機を捉えて、熊野訳では「理性が真理〈となる〉のは〜意識する〈ことになる〉」と訳されている。
「Ⅳ 精神」という場面を出来させる契機は、世界と自己自身とを切り離すのではなくそれらの繋がりと相互作用を十分に真理として持てるようになった限りにおいてであり、そうした観点に立つことは「実在性 Realität」(つまり「物 res」のあり方)に関して具に検討することが必要であり、直接無媒介にはいかないのである。「Ⅴ 理性の確信と真理」から関連する箇所をひとつだけ引いておく。
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【熊野訳】
しかし現実の理性は、これほどまでに首尾一貫していないものではない。むしろ理性はようやく「いっさいの実在性である」とする確信にすぎないかぎり、理性がこのような概念にあって意識しているのは、自分が確信であり、〈私〉であるにとどまり、まだほんとうは実在性ではないということである。かくして理性は駆りたてられて、みずからの確信を真理へと高めようとし、空虚な「私のもの」を充実させようとするのである。
(Hegel1807: 172-173)
(つづく)