目次
ヘーゲル『精神現象学』(承前)
序文(承前)
「仮象」としての「哲学」
続けてヘーゲルは〈なぜ「哲学的な著作」においては「序文」が不適切に見えるのか〉その理由について述べている.
というのも,なにをどのように,哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと——たとえば,傾向や立場,*1一般的な内容や帰結にかんする
羅列的 な論述であれ,あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても——,そのようなものは,哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として,ふさわしいものではありえないからである.その理由はまた以下の点にある.哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり,しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる.そのかぎりで哲学にあっては,他のさまざまな学にもまして,目的や最終的な帰結のうちにこそ,ことがら自身が,しかもその完全な本質において表現されているものだ,という仮象が生まれやすい.この本質にくらべれば,実現の過程はほんらい非本質的なものである,とされるわけである.(Hegel1807: Ⅰ-Ⅱ,熊野訳(上)10〜11頁)
上で「羅列的な論述」と訳されているドイツ語の eine historische Angabe は,樫山欽四郎訳では「歴史的事実の報告」と訳出されていた.これに対して,山口誠一は「同行や立場,内容の概略や成果などをただ並べ立てて話すこと(historische Angabe)」(山口2008:8)と訳出しており,熊野訳もまたその文意を反映している.結論だけをただひたすら並べ立てるやり方は,真理を叙述するやり方ではないとされているのである.
ここで「哲学 Philosophie 」はどのようなものとして認識されているだろうか.それは端的に言えば,「普遍性」こそが大事,実現に至る過程を軽視し「帰結」のみを重要視する「哲学」である.
しかしながら,われわれが注意しなければならないのは,ここで述べられている「哲学」が,ヘーゲル自身の「哲学」ではないであろう,ということである.
ここで述べられている「哲学」は,「仮象 Shein 」としての「哲学」に過ぎない.〈「哲学的な著作」に「序文」は不適切ではないか〉という懸案は,この「仮象」としての「哲学」がまさに「帰結」だけを重要視して,真理の実現に至るその過程を軽視するがゆえに発生した問題なのである.
文献
- Hegel, Ge. Wilh. Fr., 1807, System der Wissenschaft, Erster Theil, die Phänomenologie des Geistes, Hamburg und Würzburg. (Université de Lausanne, 2008)
- ヘーゲル 2018『精神現象学』熊野純彦訳,筑摩書房.
- 山口誠一 2008「『精神現象学』序説冒頭の解明」『法政大学文学部紀要』第56号.
*1:原文にはこの箇所にコンマはないが,Suhrkampではコンマが補われている.初版に従えば「一般的な内容や帰結の傾向や立場の羅列的な論述」となる.