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ヘーゲル『精神現象学』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

仮象」としての「哲学」

続けてヘーゲルは『なぜ「哲学的な著作」においては「序文」が不適切に見えるのか』その理由について述べている。

というのも、なにをどのように、哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと——たとえば、傾向や立場、一般的な内容や帰結にかんする羅列的ヒストーリッシュ論述であれ、あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても——、そのようなものは、哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として、ふさわしいものではありえないからである。その理由はまた以下の点にある。哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり、しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる。そのかぎりで哲学にあっては、他のさまざまな学にもまして、目的や最終的な帰結のうちにこそ、ことがら自身が、しかもその完全な本質において表現されているものだ、という仮象が生まれやすい。この本質にくらべれば、実現の過程はほんらい非本質的なものである、とされるわけである。

(Hegel 1807:Ⅰ-Ⅱ、訳(上)10〜11頁)

ここでまず「哲学 Philosophie 」はどのようなものとして認識されているだろうか。それは端的に言えば、「普遍性」こそが大事、実現に至る過程を軽視し「帰結」のみを重要視する「哲学」である。

しかしながら、われわれが注意しなければならないのは、ここで述べられている「哲学」がヘーゲル的な意味での「哲学」ではないであろう、ということである。

ここで述べられている「哲学」は、「仮象 Shein 」としての「哲学」に過ぎない。『「哲学的な著作」に「序文」は不適切ではないか』という懸案は、この「仮象」としての「哲学」がまさに「帰結」だけを重要視して、真理の実現に至るその過程を軽視するがゆえに発生した問題なのである。

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