目次
ヘーゲル『精神現象学』(承前)
本書の構成
『精神現象学』は「序文」と「序論」、そして「(A)意識」「(B)自己意識」「(C)(AA)理性」「(BB)精神」「(CC)宗教」「(DD)絶対知」という章立てで構成されている(表1)。

『精神現象学』では、本論に入る前に「序文 Vorrede」と「序論 Einleitung」の二つが置かれている。「序文」と「序論」はいずれも似たような言葉だが、「序文 Vorrede」とは「前もって(Vor-)語る(Rede)」という意味である。その限りで、「序文」が本書の最初に位置しているのは理にかなっている。
「序文」や「序論」といったものはふつう手短に済まされるものである。しかしながら、『精神現象学』の「序文」は原著ページ数換算で91頁(S.I–XCI)と異常に長く、しかも「序論」の19頁(S.3–21)よりも約4.8倍も長い(図1)。「序文」はその内容も考え抜かれており、ヘーゲルの意気込みを感じさせる内容となっている。

序文の慣習的な説明は哲学の目的に反するか
『精神現象学』「序文」冒頭は次の通りである。
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慣習に従って、著者が自分の著作において企てた目的や、いくつかの動機、また自分の著作が同じ対象についての前時代や同時代の論作に対してどのような関係にあるかについて、——序文で前もってひとつの説明を施しておくことになっているが、このような説明は、哲学的著作にあっては余計であるばかりでなく、事柄の本性からして不適切で目的に反するように見える。
(Hegel1807: Ⅰ,樫山訳(上)16頁/熊野訳(上)10頁)
ここでヘーゲルは、まず通常の「序文」のあり方を述べた上で「哲学的著作」における「序文」の意義について問い質している。つまり一般的な著作における「序文」と「哲学的な著作」における「序文」とでは、「序文」の果たす役割や意義が異なっているものとして考察されているわけである。
「慣習 Gewohnheit」に従えば、「序文」とは、著者がどういう目的で書いたのかをあらかじめ読者に伝えておく箇所であり、同類の著作と比べて本書がどういう位置付けなのか、その背景や文脈を説明する箇所である、ということになる。この点については特に異論はなかろう。だがこれに反して、「哲学的著作にあっては余計であるばかりでなく、事柄の本性からして不適切で目的に反するように見える」とヘーゲルはいう。ここで「事柄の本性 Natur des Sache」といわれているのはずばり「哲学」に固有の性質のことである。序文の慣習的な説明がなぜ「不適切で目的に反するようにも見える」のかと言えば、〈哲学の目的は真理に到達することである〉と見做されているからであろう。このような哲学観から見ると、「著者が自分の著作において企てた目的や、いくつかの動機、また自分の著作が同じ対象についての前時代や同時代の論作に対してどのような関係にあるか」といった「説明」は、それによって真理に到達することに寄与しないとすれば合目的的ではないことになり、そのためいわゆるオッカムの剃刀のように削がれるべきもの、わざわざ取り扱う価値のない「余計 überflüssig」なもののように映る、というわけである。
ところで、ここでは〈哲学的著作に序文は不適切である〉という主張をヘーゲルが展開しているのではない、という点に留意すべきである。というのは、ヘーゲルは実際にここで「序文」を書いているわけであるし、ヘーゲルの叙述においては、どこまでがヘーゲル自身の主張であり、どこまでが通俗的な観念をヘーゲルが描写したものであるかを見極める必要があるからだ。「このような説明は、哲学的著作にあっては余計であるばかりでなく、事柄の本性からして不適切で目的に反するように見える scheint」という箇所は、ヘーゲル自身の主張というよりはむしろ通俗的な観念をヘーゲルが描写したものと考えられる。そのように「見える」ものはいわば仮象*1に過ぎないのであって、それはやはり真理ではない。もしここでヘーゲルが〈哲学的著作に「序文」は不適切である〉と主張しているというのであれば、それをわざわざ「序文」で述べている本書そのものが自己矛盾に陥ってしまうことになる。だからヘーゲルは〈哲学的著作に「序文」は不適切である〉と主張したいわけではないであろうという推理がはたらく。