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ヘーゲル『精神現象学』覚書(2)

目次

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「序文」

よく言われることだが、『精神現象学』には「序文 Vorrede 」と「序論 Einleitung 」がある。「序文」も「序論」もほとんど似たような言葉だが、「序文 Vorrede 」とは「前もって(Vor-)語る言葉(Rede)」の謂である。それゆえ、「序文」が本書の最初に位置しているのは、字義通りには理にかなっている。

しかし、「序文」や「序論」といったものはふつう手短に済まされるものだが、本書の「序文」は非常に長い。しかも最初の「序文 Vorrede 」の方が次の「序論 Einleitung 」よりもはるかに長いのである。内容的にも考え抜かれていて、ヘーゲルは明らかに気合を入れて最初の「序文」を書いている。この「序文」をしっかりと読みこなせるか否かが『精神現象学』を読解するための試金石でもある。

「哲学的な著作」における「序文」の意義

「序文」の冒頭は次の通りである。

著作といったものには、なんらかの説明が「序文」において習慣にしたがい先だって与えられているものである。それは、著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし、また著作の機縁や、対象をひとしくし、先行するほかの論考や、同時代のそれに対して、じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある。そうした説明は、哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか、ことがらの本性からして不適切でさえあって、さらに目的に反するものであるかにも見える。

(Hegel 1807:Ⅰ、訳(上)10頁)

ここでヘーゲルは、まず著作一般における「序文」のあり方を述べた上で、「哲学的な著作」における「序文」の意義について問い質している。つまり、通常の著作における「序文」と、「哲学的な著作」における「序文」とでは、「序文」の果たす役割や意義が異なっているものとして考察されているわけである。

ヘーゲルによれば「序文」とは「著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし、また著作の機縁や、対象をひとしくし、先行するほかの論考や、同時代のそれに対して、じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある」。つまり「序文」とは、著者がどいういう目的で書いたのかをあらかじめ読者に伝えておく箇所であり、同類の著作と比べて本書がどいういう位置付けなのか、その背景や文脈を説明する箇所である。この点については特に異論はなかろう。

問題は、「序文」が「哲学的な著作」においてはどうして不適切なものと見えてしまうのかということである。この点について考察するには、上の引用の続きを読む必要がある。

続きを読む前に、ひとつ注意喚起しておかなければならないことがある。ヘーゲルの叙述においては、どこまでがヘーゲル自身の主張であり、どこまでが通俗的な観念をヘーゲルが描写したものであるかを見極める必要がある。例えば、「そうした説明は、哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか、ことがらの本性からして不適切でさえあって、さらに目的に反するものであるかにも見える scheint 」と述べた箇所は、ヘーゲル自身の主張というよりはむしろ通俗的な観念をヘーゲルが描写したものと考えられる。「見える」ものはいわば仮象*1に過ぎないのであって、それは真理ではない。もしここでヘーゲルが『哲学的な著作に「序文」は不適切だ』と主張しているというのであれば、それをわざわざ「序文」で述べている本書そのものが自己矛盾に陥ってしまうことになる。だからヘーゲルは『哲学的な著作に「序文」は不適切だ』と主張したいわけではないであろう、という推理がはたらく。

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文献

*1:「ここで注目すべきは、以上の内容すべてが、「思われる」(scheinen)という動詞からもわかるように仮象(Schein)だということである。つまり、当該の発端は、仮象の論なのである。」(山口 2008:7)。