まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『論理の学』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル『論理の学』(承前)

第一版への序文(承前)

ドイツの「形而上学を持たない教養ある民族」

 カント哲学の公教的な学説——悟性は経験を飛び越えてはならない.さもなければ,認識能力は,単独では幻想しか生まない理論理性となるだろう——は,思弁的な思惟を断念することを学問の側から正当化した.この通俗的な学説を歓迎したのは,現代の教育学の叫び,視線を直接的な必要事に向けている時代の要求であった.すなわち,認識にとって経験が第一であるように,公共的,私的生活における巧妙さにとっては理論的洞察は有害でさえあり,訓練と実践的教養一般が本質的であり唯一有益なものである,というわけである.——そのようにして,学問と常識は形而上学の没落を引き起こすことに手を貸したのだった.そのことによって,形而上学を持たない教養ある民族を見るという奇妙な光景がもたらされるように思われた.——他の点では様々に飾り立てられていながら,最も神聖なものを欠く寺院を見るようにである.

Hegel1812: ⅳ,訳3〜4頁)

ここでヘーゲルはカント哲学に触れている.カントの「悟性 Verstand 」に関しては,『純粋理性批判』の超越論的分析論の第2章「純粋悟性概念の演繹」が参照されなければならないであろう.カントによれば「純粋直観と純粋悟性概念にかんしていえば,それらは私たちのうちにア・プリオリに見いだされる認識の要素である」(カント2012:194).「ア・プリオリ a priori 」とは「より先のものから」を意味するラテン語であるが,カントはこの術語を「経験に先んじて」という意味で用いた(それゆえ,これは「先験的」と訳される場合もある).ヘーゲルが上で「悟性は経験 Erfahrung を飛び越えてはならない」と述べているのも,カントのいうア・プリオリな悟性概念に関説してのことである.

 前回見たパラグラフにおいてヘーゲルは「一民族がその形而上学を失い,その純粋な本質に携わる精神がもはや現実的な存在を民族のうちに持たなくなった場合,それはおかしなことである」と述べていたが,このパラグラフではカントの批判哲学によってドイツの教養ある民族は形而上学を持たなくなってしまったとヘーゲルが述べているように読み取れる.ヘーゲルの生きていた時代の要求は,理論よりも実践を求める風潮があったということがここから窺える.

(つづく)

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