まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(12)國分功一郎『スピノザ——読む人の肖像』

目次

國分功一郎スピノザ——読む人の肖像』(岩波書店、2022年)

「……を私は……と解する」という定義の仕方は、ただ単に「名目的な」だけなのか

 國分功一郎は本書の中で『エチカ』冒頭の「定義」について次のように述べている。

 この定義群を目にして最初に気がつくのは、それらが『知性改善論』の定式化した発生的定義とは形態を異にしているということである。それらはいずれも「……を私は……と解する」「……は……と言われている」という形態を取っている。これらは定義される対象の発生原因をその内に含むものではない。単に用語の意味を確定している名目的な定義に過ぎない。なお、これらの定義の後には七つの公理が置かれているが、これらの公理も発生的な形態を取ってはいない。

國分功一郎スピノザ——読む人の肖像』岩波書店、2022年、130頁)

國分の解釈によれば、「……を私は……と解する」という定義の仕方は「名目的な」ものに過ぎない。「……に過ぎない」というのはドイツ語では„nur“であるが、ほんとうにそれ「だけ nur」なのだろうか。「名目的」ということは、実質的な意味合いを持っていないということでもある。

 國分はスピノザの定義の仕方を「名目的」だと切り捨てるが、私はもうすこしスピノザの定義の仕方に着目してみたい。

 ちなみに「定義」において登場する「私」の存在については、以前このブログでも取り上げた。最近ではこの点についてネオ高等遊民さんがYouTubeで言及してくれている。

sakiya1989.hatenablog.com

youtu.be

 スピノザが「……を私は……と解する」と定義する際に、この叙述様式にはどのような意義があると考えられうるか。『エチカ』は幾何学的な仕方での叙述が目指されているのだが、幾何学的な叙述が目指された所以というのは、神学とは別の仕方で「神=自然」について叙述する必要があったからではないのだろうか。聖書やトーラーを引用するわけでもなく、「〈私が〉理解する」限りでの「神」についての定義を披露するというのは、敬虔なユダヤ教徒からすれば、不遜な行為そのものではないのか。「……を私は……と解する」という「神について」の定義の仕方が、敬虔なユダヤ教徒にとって不遜な印象を与えるのだとすれば、スピノザのこのような定義の仕方は「名目的」なもの「に過ぎない」のではなく、実質的な緊張関係を孕むはずである。

 スピノザが「……を私は……と解する」と定義する場合、この定義の仕方は、客観性を志向していると考えられる幾何学的な叙述様式に反して、多かれ少なかれ恣意性を含んでいる。「われわれ」ではなく、他ならぬ「〈私が〉理解する」限りでの、「定義」である。このような「定義」が『エチカ』の幾何学的な叙述様式を根底で支える土台である。その土台が恣意的である限りで、『エチカ』という建築物の土台は堅固なものではあり得ない。しかし、聖書やトーラーを抜きにして、「神について」叙述するには、それ以外の方法があり得たであろうか。「われわれ」と複数形にできるほど、ドゥルーズ=ガタリのように思想の主体を複数化できるほど、スピノザの思索に同伴するものは存在しただろうか。ユダヤ共同体を破門されたスピノザにとって「私は」という一人称単数形をとることは、はたして「名目的な」ものに過ぎないのだろうか。もしもベンヤミンだったならら、デリダだったなら、「私は」にこだわり、そこにスピノザの何らかの声なき声を掬い取るのではなかろうか。