目次
ヘーゲル『精神現象学』(承前)
精神(承前)
「純粋な事物」としての「朦朧とした織物」
b 啓蒙の真理
朦朧として,もはや自身のうちでなんの区別もない織物を,精神は紡いでいる.その織物はこうして,じぶん自身のうちへ,つまり意識の彼岸へと退いてしまっているいっぽうで,意識はこれに反して,じしん明晰なものとなっている.
(Hegel1807: 522,熊野訳(下)288頁,強調引用者)
「精神の朦朧とした織物が意識の彼岸へ退いてしまっている」というのは,織物自体が「もはや自身のうちでなんの区別もない」ことによって不明瞭なものになっていることを意味するが,同時にその不明瞭さを意識自身が紡ぎ出している限りにおいては,意識にとってはそのことは「明晰 klar」である.
第一の契機はかくてこの明晰さということになるけれども,その契機がみずからの必然性と条件とをともなって規定されているのは,純粋な洞察が,あるいは純粋な洞察でありながらそれ自体として概念であるものが,実現されることによってである.純粋な洞察がこの件を遂行するのは,それが他であるもの,あるいは規定されたありかたを自身にそくして定立する場合なのである.
(Hegel1807: 522-523,熊野訳(下)228頁)
ここで"an sich"が強調されているが,これは「即自的」と言われるように,未だ実現されざる潜勢力をもったあり方であり,こうした「即自的には概念であるもの」が実現されるからこそ,第一の契機は「その必然性と条件の中でそれによって規定されている」のである.そして「他であるもの,あるいは規定されたありかたを自身にそくして定立する」ことは純粋な洞察にとっては「否定的なもの」である.
このようにして純粋な洞察は,否定的な純粋洞察である.つまり概念を否定するものであるということだ.この否定もまた〔純粋な洞察と〕同様に純粋なものであるから,かくてまた純粋な事物が,つまり絶対的実在が,これ〔つまり事物であること〕以外にはそれ以上なんら規定を持たないものとして生成してきている.
(Hegel1807: 522-523,熊野訳(下)228頁)
「純粋な事物」とは「朦朧とした織物」である*1.もともと二つの異なる縦糸と横糸によって折り込まれた織物は一つの「純粋な事物」として区別がつかなくなるわけである.縦糸と横糸は「即自的には概念」であったものだが,これらが織り込まれることによって区別がつかない一つのモノとなる.
文献
- Hegel, 1807, System der Wissenschaft, Erster Theil, die Phänomenologie des Geistes, Hamburg und Würzburg. (Université de Lausanne, 2008)
- ヘーゲル 2018『精神現象学』熊野純彦訳,筑摩書房.
*1:同じパラグラフのすぐ後で次のように述べられている.「この純粋な事物は,したがってほかでもなく,例の朦朧とした,意識を欠いて精神がじぶん自身のうちで紡ぎあげた織物である.」(Hegel1807: 523,熊野訳(下)229頁).