まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

悪用の人文学——パノプティコン型マネジメントの罪とその贖い

パノプティコン〉は一般化が可能な一つの作用モデルとして理解されなければならない。人間の日常生活と権力との諸関係を規定する一つの方法として——

ミシェル・フーコー『監獄の誕生——監視と処罰』田村俶訳、新潮社、1977年、207頁)

目次

はじめに

 私は自身の罪を告白しなければならない。それは、人文学の知見を業務に応用していることである。この点に関しては、「人文学を悪用している」と捉えられてもおかしくない。

 私は大学時代から今日に至るまで、ずっと西欧の古典に慣れ親しんできたし、このブログでも総じてそうしたテーマを取り扱ってきた。きっかけを与えたのはサブプライムローンの破綻に端を発するリーマンショックであり、その問題と向き合う中で懸案となったテーマの一つは「新自由主義とどう対峙するか」であった。

正規雇用と相対的剰余価値

 大学時代は資本主義=資本制社会を突き離して純粋に考察するためにアルバイトをすることすら避けてきた私だが、大学院修士課程を修了してからは、ユニクロでのアルバイト、ソフトバンクでの販売契約社員(後に正社員)へと、まさに労働する現場の渦中で、資本主義=資本制社会の問題点について考察を深めてきた。そして2年前からは自身がSV(スーパーバイザー)として人を観る(管理する)立場になってしまった。その過程で、自身が契約社員として剰余価値がいかにして生み出されているのかを身をもって体験すると同時に、正社員としてはその剰余価値によって雇用を保障される立場にもなった。労働時間の長時間化は年々見直されるようになり、プレミアムフライデーの取得や有給休暇の取得義務化の影響で絶対的剰余価値は緩和されることとなった。反面、契約社員から正社員への道筋は針の穴を通すような狭き門であり、職能と生産性基準の突き上げにより相対的剰余価値は常に底上げされることとなった。分業体制は見直され、ワンストップで業務を行うことが推奨されることで、年々、労働力の強化がなされている。ここまではすべてマルクスの『資本論』(Das Kapital, 1867)の論理で説明がつく。

パノプティコン型マネジメント

 私はピーター・F・ドラッカーの著書を読んだことがないが、経営学の名著として有名なドラッカーの『マネジメント』よりも実践的に効果のある古典が存在する。それはフーコーの『監視と処罰:監獄の誕生』(Surveiller et punir, Naissance de la prison, 1975)である。ベンサムのアイデアであった「パノプティコン」という全展望監視システムを、フーコーが本書で取り上げたことはよく知られている。今日「DX(デジタルとランスフォーメーション)」と呼ばれるシステムがあらゆる業務を数値化し分析できるようにすることで、ウェブを介した「パノプティコン」を成り立たせていることは明白である。私はこの点について自覚的であるだけ「マシ」かもしれないが、自覚した上でそれをマネジメントに活用しているのだから、やはり「人文学を悪用している」と罵られても仕方がないだろう。

 実際、フーコーは講義の中で「新自由主義」について考察したりもしていた。だから、「パノプティコン」や「自己規律化」という概念が、「新自由主義」が蔓延る社会の中でどのような役割を持つことになるのかを、フーコー自身が理解していたと言っても過言ではないであろう。重要なことは、「パノプティコン」のような事象が現代社会では至る所で見られ、しかもそれは株主資本主義の中では資本家を含めて誰もが直面する事象である、という点である。ビジネスにおける「モチベーション」という言葉が「自己規律化」を率直に言い表している。

 管理者が「パノプティコン」を自覚的に行うことで、一見ソフトに見えるマネジメントは、労働力の強化とそれに伴う相対的で絶対的な剰余価値を生み出すシステムを構築することができる。「モチベーション」高く、嬉々として働く部下を傍目に、私が絶対に口にできない事柄である。

〈贖い〉として飯を奢る

 他方で、人に飯を奢ることが増えた。これはいわば〈贖い〉として、私が自覚的にやっていることである。だが、それは何のための〈贖い〉であろうか。非正規労働者たちが生み出す剰余価値によって、私の給与がもたらされているからである。すなわち、パノプティコン型マネジメントにより、非正規労働者たちは相対的剰余価値を高めることを強く要求されるにもかかわらず、それに対する見返りは頑張った個々人に対して十分になされることがない。その構造に私自身も一役買っているわけだから、私が〈贖い〉として飯を奢るのは、むしろ「贈与」に対する通常の見返りを与えているに過ぎない。