まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

フーコー的実践——〈パノプティコン〉論のポテンシャル(1)

目次

はじめに

 前回、パノプティコン型マネジメントについて言及した。それに伴い、手元にあるフーコーの文献を捲ってみたら、直近では〈パノプティコン〉への言及がほとんどないことに気がついた。先行研究ではあまりに物足りない記述が続くため、せっかくなのでフーコーの〈パノプティコン〉論について自分で書いてみることにした。

一般化可能な作用モデルとしての〈パノプティコン

 フーコーの〈パノプティコン〉論は、言うまでもなくベンサムの描写した監獄施設の建築構造に由来する。だが、フーコーの〈パノプティコン〉論は、「一般化が可能な一つの作用モデル」として概念化されることで、監獄施設以外の事柄にも応用可能であり、それゆえ、きわめて大きなポテンシャルを秘めている。

……このペストの場合とは反対に、〈パノプティコン〉は一般化が可能な一つの作用モデルとして理解されなければならない。人間の日常生活と権力との諸関係を規定する一つの方法として、である。……

ミシェル・フーコー『監獄の誕生——監視と処罰』田村俶訳、新潮社、1977年、207頁)

「ペストの場合」とは「生きるか死ぬかの単純な二元論に要約される作用」であって、フーコーの〈パノプティコン〉論はそのような「単純な二元論」に帰されるようなものではない、と両者は対照的に述べられている。ここでフーコー自身が注意を促しているように、「〈パノプティコン〉は一般化が可能な一つの作用モデルとして理解されなければならない」とすれば、〈パノプティコン〉という図式は、「人間の日常生活と権力との諸関係」において、ありとあらゆる場面で登場することになる。それは労働環境において具に顕れる。例えば、上司と部下として、あるいは同僚として、あるいは先輩と後輩として、あるいは男女として、二人の人間が居れば、そこには多かれ少なかれ「人間の日常生活と権力との諸関係」が生じることになる。

(つづく)

文献