まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

読書前ノート(10)ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用 脱構成的可能態の理論のために』(上村忠男訳、みすず書房、2016年)

筆者が本書を手に取ったのは、少なからずヘーゲル法哲学の第一部「抽象法」の解釈に役立てるためであった。ヘーゲルは次のように述べている。

【§59】…使用(Geburauch)とは、物件を変化させたり、無化したり、費消したりすることを通して、私の欲求を実現することである。…

ヘーゲル『法の哲学(上)』上妻ほか訳、岩波文庫、2021年、174頁)

ヘーゲルによれば、〈使用 Geburauch〉の対象は〈物件 Sache〉である。この見解に基づいて「身体の使用」という事態を考察すると、〈身体 Körper〉とは〈物件〉の一つであり、したがって〈物件〉としての〈身体〉がヘーゲルの所有(占有)論と同様の論理で扱われることになる。じじつヘーゲルは、〈身体〉を「陶冶 Ausbildung」をつうじた「占有取得」の対象に入れている。

【§57】人間は、その直接的な現存在にしたがえば、それ自身において自然的なものであり、みずからの概念にとって外的なものである。人間は、自分自身の肉体〔身体:引用者注〕と精神とを陶冶することではじめて、また本質的には彼の自己意識が自分のことを自由なものとして把握するようになってはじめて、自分を占有取得し、自分自身の所有物となり、他人に対抗するものとなる。

ヘーゲル『法の哲学(上)』上妻ほか訳、岩波書店、2021年、169〜170頁)

ヘーゲルのこうした見解は、〈使用〉の対象が〈身体〉の外部に見える対象のみならず——というよりも〈身体〉とは〈物体〉の謂いであるから当然と言えば当然なのだが——〈身体〉それ自身も〈使用〉の対象であることを明示している。しかもその〈身体〉を上手く使うには「陶冶」という訓練のプロセスが必要とされるのである。このことは、「陶冶」の結果であるアスリートの〈身体〉や、あるいは生まれたての赤ん坊が自身の筋肉では自らの〈身体〉を支えることができないという事態を考慮するならば容易に理解可能であろう。

 さて、こうした文脈を踏まえつつ、アガンベンは『身体の使用』でどのような思想を述べているのだろうか。本書はアガンベンの〈ホモ・サケル〉プロジェクトのⅣ-2に位置付けられており、したがって、本書は本来この〈ホモ・サケル〉プロジェクトの文脈に即して理解される必要があるだろう。だとするならば、話はアガンベンの〈ホモ・サケル〉プロジェクトとは一体何であるか、というところから始めねばならないだろう。上村忠男によれば、〈ホモ・サケル〉とは、法の外部に位置する人間であり、ゆえに神々と同類であって、通常の人間と同等に扱うことができなかったとされる。

 記録に残っているところによると、親に危害を加えたり、境界石を掘り起こしたり、客人に不正を働いたりした者を処罰しようとするさい、その者のことを古代のローマ人は「ホモ・サケル」——「聖なる人間」——と呼んでいたという。ただし、処罰するといっても、この場合には、法律が適用されるわけではない。法律が適用されるのではなく、単純に法律の適用から外されるのだ。「聖なる人間」と呼ばれるのは、この事情によっている。ひいては、この者にかんしては、だれもが法律上の殺人罪に問われることなく殺害することができるとされた。しかも、まさしく聖なる存在としてそれ自体がもともと神々と同類とみなされるため、この者は祭儀上の手順を踏んで神々に犠牲として供されることもできなかった。

(上村忠男『アガンベンホモ・サケル》の思想』講談社、2020年、5頁)

こうした法の外に位置する人間が、憲法を制定する権力である、いわゆる「構成的権力(憲法制定権力)」と重なることはすぐに看取できよう。だから本プロジェクト最初の『ホモ・サケル:主権的権力と剥き出しの生』では、「主権」が考察の対象となっている。アガンベンは『身体の使用』で「構成的権力」について次のように述べている。

 近代思想においては、もろもろのラディカルな政治的変化は「構成的権力(potere costituente〔みずからを憲法へと構成する権力・憲法制定権力〕)」という概念をつうじて思考されてきた。憲法によって構成された権力はどれも、通常は革命という形態をとる過程をへてそれを存在させ保証する、あるひとつの構成的権力なるものをその起源に想定している。もし始元の構造にかんするわたしたちの仮説が正しいとするなら、そしてもし基本的な存在論的問題が今日では働きではなくて働かないでいることであるとするなら、しかしまた働かないでいることが立証されうるのは働きにたいしてのみであるとするなら、そのときには、従来とは異なった政治像へのアクセスは「構成的権力」という形態ではなく、なにかわたしたちが暫定的に「脱構成的可能体(potenza destituente)」と呼ぶことができるものの形態をとることになるだろう。そしてもし構成的権力には革命、蜂起、新しい憲法、すなわち、新しい法権利を定立し構成する暴力が対応するとしたなら、脱構成的可能態のためにはまったく別種の戦略を考案する必要があるだろう。それを定義することが来たるべき政治の任務なのである。

ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』上村忠男訳、みすず書房、2016年、444頁)

要するにアガンベンが求めるのは「構成的権力」とは別の仕方で政治思想を再構築することであり、だからこそ既存の法秩序の外部に位置する〈ホモ・サケル〉という存在から出発する必要があったのである。

 ここで冒頭のヘーゲル法哲学に話を戻そう。ヘーゲルは第一部「抽象法」において所有論(その中で「占有」や「使用」が語られる)を述べてから、その後に第三部「人倫」において国家主権を論じている。一方で、アガンベンの〈ホモ・サケル〉プロジェクトではその第Ⅰ部(『ホモ・サケル』)で主権が問題にされてから、第Ⅳ部(1『いと高き貧しき』、2『身体の使用』)で「使用」が問題とされている。つまりヘーゲルアガンベンではその扱われる概念の叙述が逆の順序になっている。アガンベンが本書で「脱構成的可能態」の理論を打ち立てようとしたのであれば、アガンベンの政治思想は〈ホモ・サケル〉シリーズの完結を以ってようやくそのスタートラインに立ったにすぎないといえよう。