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真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『法の哲学』覚書:「世界史」篇(1)

目次

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ヘーゲル『法の哲学』

世界史

「世界史」における「普遍的精神」

 第341節

 普遍的精神が定在する境位は,芸術においては直観と像,宗教においては感情と表象,哲学においては純粋で自由な思想であるが,世界史においてはその内面性と外面性の全範囲にわたる精神的現実性である.世界史はひとつの法廷である.なぜなら,この法廷の即自かつ対自的に存在する普遍性のうちでは,多彩な現実性を具えた特殊的なもの,ペナーテース神,市民社会,諸民族〔国民〕精神がただ観念的なものとして存在しており,そしてこの境位における精神の運動は,この観念的なものを表現することであるからである.

(Hegel1820: 344,上妻ほか訳(下)358頁)

「即自かつ対自的に存在する普遍的精神」というのは,いわば最も高次の観点(絶対者)から見渡している精神であり,その観点から「芸術」や「宗教」や「哲学」などの様々な分野が扱われうる.詳しくは,「芸術」についてはヘーゲルの『美学講義』,「宗教」についてはヘーゲルの『宗教哲学講義』,「世界史」についてはヘーゲルの『世界史の哲学講義』が参照されるべきであるが,ここではヘーゲルの講義録には立ち入らない.

 ここでもヘーゲルは「世界史」を「ひとつの法廷」に見立てているが,かつて「世界史」を「ひとつの法廷」に見立てた人物がヘーゲル以外に居ただろうか.「法廷」であるからには判決を下す者(裁判官)と裁かれる者がいると考えがちであるが,そういう図式で考えることは一旦措いておく.むしろヘーゲルは本書の中で「特殊的な利害関係についての主観的な感情を抜きにして,特殊的な事件に即して法(権利)を認識し,法(権利)を実現することは,公的な威力である裁判に属している」(第219節)と述べていたことを想起されたい.つまり,法廷としての世界史には「法(権利)を認識し,法(権利)を実現すること」が属していると考えるのが妥当であろう.

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