まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

バウムガルテン『美学』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではアレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten, 1714-1762)の『美学』(Aesthetica, 1750)を読んでいきたいと思う.バウムガルテンは"Aesthetica"(美学)なる語を造語した.バウムガルテンが初めて「美学 Aesthetica 」なる語を用いたのは,彼の『詩に関する諸点についての哲学的省察』(Meditationes philosophicae de nonnullis ad poema pertinentibus, 1735, §116)においてである.

…従って,上位能力で認識されるべき〈知性的なもの〉は論理学の対象であり,〈感性的なものは感性学〉つまり美学の対象である.

(Baumgarten1735: 39)

かくしてバウムガルテンは,上位認識論としての「論理学 Logica 」と,下位認識論としての「美学 Aesthetica 」とを,いわば姉妹として位置付ける(『美学』§13).彼のこのような「美学」概念は,美術史において常に参照され続けるであろうし,学問としての「美」の概念の転換点でもあろう.

 バウムガルテン『美学』を取り上げる目的としては,一つには,私自身のヘーゲル『美学講義』研究の端緒にしたいという点にあり,もう一つには,井奥陽子さんの著書(井奥2020)や石塚正英先生の研究論文(石塚2021)を手に取る中で,自分なりにバウムガルテンを咀嚼してお二人の研究成果を受容したいという点にある.

バウムガルテン『美学』第一巻

(Baumgarten1750,表題紙)

上の紋章は講談社学術文庫の表紙に用いられているが,私にはこのイラストがどのような意味を持っているのかよくわからない.

序論

美学に装飾された〈花冠〉

 §1

 美学(すなわち自由学芸リベラル・アーツの理論であり,下位認識論であり,美的に思考することの技術であり,理性の類比の技術である)とは,感性的認識の学問である.

(Baumgarten1750: 1,松尾訳22頁,訳は改めた)

本文に入る前に,原典の画像をよく見ていただきたい."AESTHETICA"の"A"の文字の周囲には,シンメトリーな可愛らしい装飾が施されている.翻訳ではなく原典に当たることの醍醐味の一つは,こういうデザインを発見することにある.

 "A"の文字の上には「冠」のイラストが見える.「冠」とは,英語で言えば"crown"(クラウン),ラテン語で言えば"corōna"(コローナ)である.ラテン語の"corōna"には「花輪」という意味もあり,この"corōna"という語から派生して"corōlla"という語が生じた."corōlla"は「小さな冠(corōna)」であり,花などで作られた冠や装飾物のことを指す."A"の文字の周囲を取り巻く花はまさしく"corōlla"である."corōna"(冠)から派生して"corōlla"(花冠)が生じたとすれば,"A"の下に描かれているデザインもまたさらなる派生を示しているのではないかと見当がつく.

感性的認識の〈学問〉としてのバウムガルテン美学

 バウムガルテンによれば,「美学とは感性的認識の学問である AESTHETICA … est scientia cognitionis sensitiuae 」とバウムガルテンは述べている.「感性的認識」の内容については一旦措くとして,バウムガルテンが本書において「美学」を「感性的認識の学問」として定義したことの意義は,「感性的認識」を直観的に把握されるべき曖昧なものとしておくことなしに,それを「学問 scientia 」にまで高められることを目指した点にあると言えるだろう.ただしこの点に関接して,バウムガルテンが「美学は技術〔つまり自由学芸リベラル・アーツ〕であって,学問ではない」という一般通念を次のように斥けている点に注意しなければならない.

 §10

 異議申し立て——(8)美学は技術であって,学問ではない.答え——(a)この両者は対立するものではない.かつては単に技術にすぎなかったどれほど多くのものが,今日では既に学問でもあることか.(b)我々の技術が論理的に証明されうるものであることは,経験が保証するであろう.また,ア・プリオリにも明白である.心理学などが確実な原理を供給しているからである.それが学問にまで高められるに値することは,特に§3,4で論及された応用が示している.

(Baumgarten1750: 4,松尾訳32頁,訳は改めた)

「自由学芸」と「学問」とを区別して両者を対立的なものとみなすこのような一般通念の背景にあるのは,「自由学芸」を「哲学」すなわち「学問」に取り組むための前提,基礎的学科と位置付けるプラトン以来の「学問」観であろう.これに対してバウムガルテンの場合には,「美学」とはいわば〈学問〉としての自由学芸なのであって,自由学芸を〈学問〉の地位において取り扱うのである*1

美の表象の複合体としての〈感性的認識〉

 では,「美学」という「学問」が対象とする「感性的認識」とは一体何なのであろうか.この点については,第一部「理論的美学」第一章「発見論」第一節「認識の美」の箇所で次のように述べられている.

 §17

 感性的認識とは,その中心的契機から導き出された命名によれば,判明性より下位に位置する〔諸々の〕表象の複合体である.もしこの現出する感性的認識の美と優美,或いは醜を,ちょうど洗練された趣味の観察者が時として直観するように,知的思考によってそれ自体として(§15, 16)見渡そうとするとしたら,様々の水準にある類的な美や醜の山,及び種的,個体的な美,醜の山にいわば押しつぶされて,学に必要な論理的判断力は衰えてしまうだろう(§1).それ故,先ず,それが美しい感性的認識の殆どすべてに共通である限りでの普遍的で包括的なを,その反対物と共に検討することにしよう(§14).

(Baumgarten1750: 7,松尾訳38頁)

「感性的認識」によって認識されるのは「美」や「優雅」という概念であり,こうした「諸表象の複合体」が「感性的認識」をなしている.これらの表象を〈学問〉として取り扱うにあたって,バウムガルテンは「先ず,それが美しい感性的認識の殆どすべてに共通である限りでの普遍的で包括的な美を,その反対物(つまり「醜」)と共に検討する」という戦略をとるのである.というのも,「美学」が〈学問〉を標榜するからには,ただ単に美の個別性や特殊性に拘泥するのではなく,美の形式や内容の普遍性が詳らかにされていることが重要だからである.

(つづく)

文献

*1:バウムガルテンはヴォルフの〈自由学芸の哲学〉に「美学」という新たな名称を与えたうえで,ヴォルフにおいては哲学体系の外部へ位置づけられていた文法学と詩学・修辞学を,自由学芸の伝統を踏まえて再び論理学との隣接関係に置いたと言える」(井奥2020:68).