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真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『エンツュクロペディー』覚書:「動物有機体」篇(1)

目次

はじめに

 本稿ではヘーゲル『哲学的諸学問のエンツュクロペディー要綱』(Encyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse, 1817)II「自然哲学」第3部「有機体物理学」C「動物有機体」の箇所の読解を試みる.

ヘーゲル『哲学的諸学問のエンツュクロペディー要綱』

II「自然哲学」第3部「有機体物理学」C「動物有機体」

(1)初版(いわゆる『ハイデルベルク・エンツュクロペディー』)

 第273節*1

 有機的な個体性は次のとき初めて主体性である.それは,その個別性が単なる直接的な現実性であるだけでなく,揚棄されてもいるとき,普遍性の具体的な契機としてあるとき,また,有機体が外へ向かう過程の中で自己的な太陽を内部に保持するときである.これが動物的自然であり,個別性の現実性と外面性にあっても,同じくそれに対抗してただちに自己へと反省した個別性,自己のうちに存在する主体的な普遍性でもあるもののことである.

(Hegel1817: 185,伊藤訳228頁,訳は改めた)

(2)第二版

 第350節

 有機的な個体性は次のとき初めて主体性である.それは,その個別性が単なる直接的な現実性とこれに伴い個の多数性であるだけでなく,揚棄されていてしかも普遍性の具体的な契機としてあるとき,姿態の固有の外面性が諸分肢として観念化されているとき有機体が外へ向かう過程の中で自己的な太陽を内部に保持するときである.これが動物的自然であり,個別性の現実性と外面性にあっても,同じく個別性,それに対抗してただちに自己へと反省した個別性自己自己のうちに存在する主体的な普遍性でもあるもののことである.

(Hegel1827: 332)

(3)第三版

 第350節

 有機的な個体性は次のとき主体性であるとして顕現する.それは,その個別性が直接的な現実性とこれに伴い個の多数性であるだけでなく,揚棄されていてしかも普遍性の具体的な契機としてあるとき,姿態の固有の外面性が諸分肢として観念化されているとき,有機体が外へ向かう過程の中で自己的な太陽統一を内部に保持するときである.これが動物的自然であり,個別性の現実性と外面性にあっても,同じく個別性の,それに対抗してただちに自己へと反省した自己,自己のうちに存在する主体的な普遍性(§.163.)でもあるもののことである.

(Hegel1830: 360)

ここでヘーゲルは「動物的有機体 thierische Organismus」を「主体性 Subjektivität」の観点から論じている.一箇の身体(ここでは「有機的な個体性」と言われている)を思い浮かべるとき,頭とか腕とか内蔵といった部位——第二版以降のヘーゲルはこれらを観念的には「分肢」*2と呼んでいる——はそれぞれ「個別性」であるが,それが「単なる直接的な現実性」であるということは,壊死しておらず生命をもって機能しているということである.しかしながら,これらの部位が「普遍性の具体的な契機」としてあるということは,一つの重い箱を取り上げるときに動く際の頭から爪先までの一連の動作が見事に連関しているということである.この動作が難しいことは,人間と全く同じ動作を再現するロボットを作成するのが難しいことからも理解できよう.

 こうした一個の身体が「自己的な太陽を内部に保持する」といわれる場合,その身体を動かす生命エネルギーが「太陽」に喩えられているわけである.その炎で地球を照らす「太陽」の比喩は,死の表現たる暗闇と対照的である.見事な比喩だが,第三版では「太陽」の比喩は削除されており,その手前の箇所も大幅に削除されている.

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:邦訳では「第274節」となっている.

*2:ヘーゲルがここで「分肢」と加筆修正を施したのは,『法の哲学』における「主権」論との連続性を保つためであろう.「主権を形成する観念論は,動物的有機的組織において,それのいわゆる部分が部分ではなく,分肢すなわち有機的契機であり,部分が孤立化し,それ自身として存立することは病気(『哲学的諸学のエンツュクロペディー』293節)であるというのと同じ規定である.」(Hegel1820: 283,上妻ほか訳(下)258頁).