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ヘーゲル『法の哲学』覚書:「世界史」篇(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル『法の哲学』(承前)

世界史(承前)

ギリシア帝国

第356節

2)ギリシア帝国

 この帝国は有限なものと無限なものとのさきのような実体的一体性をもっているが、しかしそれをただ、おぼろな名残りや洞窟や伝説的な心像のなかへ押しのけられた神秘的な基礎としてもっているにすぎない。基礎はここでは、おのれを区別する精神によって個体的精神性として生み出されて知の明るみのなかへ出ており、美となるとともに、自由明朗な倫理となり、ほどよく和らげられて光り輝いているのである。それゆえこの規定において、人格的個体性の原理がそれ自身にとって明瞭になるが、それはまだおのれ自身にとらわれないものとして、その理想的一体性において保持されている。ーーだからして一つには、全体はもろもろの特殊的民族精神の形成する仲間集団から成っており、また一つには、最終意志決定が対自的に存在する自己意識の主観性によってはまだなされず、自己意識より高くてその外にあるような威力によってなされており〔§279註解参照〕、また欲求につきものの特殊性がまだ自由のうちへ取り入れられず、もっぱら奴隷身分へ押しつけられている

(Hegel1820: 351,藤野/赤澤訳(II)、441-442頁)

ここではヘーゲルによるギリシア帝国のポジティブな評価とネガティヴな評価が混在している。ポジティブな評価とは、ギリシア帝国が「有限なものと無限なものとのさきのような実体的一体性をもっている」ことであり、ネガティヴな評価とは、「有限なものと無限なものとの実体的一体性」を「おぼろな名残りや洞窟や伝説的な心像のなかへ押しのけられた神秘的な基礎としてもっているにすぎない」ことである。

 後半の文章は、第三部「倫理」との対比において述べられている。「最終意志決定が対自的に存在する自己意識の主観性 Subjektivität」という箇所は、具体的には「君主権」のところで述べられた事柄であり、実際ヘーゲルもまたそこに参照指示を促している。

〔§279註解〕ここに、国家の重大事と重大時機に対する最終決定を、神託ダイモーンソクラテスにおける〕から、また動物の内臓や鳥の餌あさりと飛翔などから引き出そうという要求が生まれる根源がある。——決定がこういうふうになされたのは、人間が、まだ自己意識の深さを把握していず、実体的一体性の堅い未分状態からこの自覚的対自存在に到達していなかったために、決定を人間存在の内側に見る強さをまだもっていなかったからである。

(Hegel1820: 285,藤野/赤澤訳(II)、316-317頁)

§279註解に「自己意識より高くてその外にあるような威力によってなされて」(§356)いるものが具体的に述べられているが、それは「神託やダイモーン(=ダイモニオン)」のことであった。確かに最終意志決定を神託やダイモニオンに委ねる行為は、近代に生きる個人の自由意志から見れば、それは何か神秘的で、宗教的で、遅れたものに見えるかもしれない。だがそれは、個人の意志決定の信頼性が担保できなかった古代ギリシア都市国家においては、恣意的決定ゆえに命を奪われる危険性を回避するための、いわゆる客観性を担保する役割を果たしていたと言えるのではなかろうか。

ポリスを支えるオイコスにおける「欲求」の担い手としての奴隷身分

 「また欲求につきものの特殊性がまだ自由のうちへ取り入れられず、もっぱら奴隷身分へ押しつけられている」という箇所についていえば、ここで観念されている「欲求」はごく自然な「欲求」すなわち衣食住に関わる「欲求」であろう。というのは、「欲求」がもし自由のうちに取り入れらたのならそれは多種多様になり細分化され、ヘーゲルのいう近代的な「市民社会」の原理に至ることになるが、ギリシア帝国における「欲求」はまだそこに至っていないから、まだ多種多様に細分化されていないと考えられるのである。

 加えて衣食住にかかわる自然的な「欲求」が「もっぱら奴隷身分へ押しつけられている」というのはどういうことであろうか。この点に関しては、アーレント『活動的生 Vita activa』を手引きにしてもよかろう。ポリス(政治的共同体)を支えていたのは、物質的基盤としてのオイコスの領域において家事労働を行う奴隷身分であったとされるからである。

(つづく)

文献