まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ヘーゲル『精神現象学』覚書(13)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

「哲学」と「知識」

 以下でみるパラグラフにかんしては、すでに6年ほど前に「ヘーゲル『精神の現象学』「序言」における《哲学》と《科学》」の中で論じた。併せて、読まれたい。

 真理性が現実存在する真なる形態は、真理性の学問的=科学的(ヴィッセンシャフトリッヒ)体系を除いて他にはありえない。哲学が学問=科学(ヴィッセンシャフト)という形式に一層近づくために、——つまり、知恵(ヴィッセン)へのいう名を捨てることができ、現実的な知識(ヴィッセン)であろうとする目標に一層近づくために、——協同作業すること(ミットツーアルバイテン)が、私の企てたことである。知識(ヴィッセン)学問=科学(ヴィッセンシャフト)である、という内的必然性は、知識(ヴィッセン)の本性のうちに在る。そしてこの点についての満足のいく説明は、哲学そのものを叙述することを除いて他にはない。しかし、外的必然性にしても、個人(ペルゾーン)個人的( インディヴィデュエーレン)機縁やの偶然性を別にして、一般的な仕方で考えられる限り、内的必然性と同じものである。つまり、時代が、この内的必然性の契機の現存する姿を表象する形から言えば、同じなのである。それゆえ、哲学を学問=科学(ヴィッセンシャフト)に高める時がきているということ、このことを示すことこそ、このような目的をもった試みを是認するただ一つの真の途であろう。というのは、時代はこの目的の必然性をのべるものであろう、否、同時にこの目的を実現するであろうからである。

(Hegel1807: ⅵ-ⅶ,樫山訳(上),訳は改めた)

「哲学」(φιλοσοφία)とはそもそも「知恵(σοφία)への愛(φίλος)」と呼ばれるものであった。この古典的な意味での「哲学」(φιλοσοφία)は、しかしヘーゲルの時代には「学問=科学 Wissenschaft」未満であり、「現実的な知識」ではなかった。

 古典ギリシア語において、「知恵」(σοφία)は「知識」(ἐπιστήμη)とは区別されている(プラトン『テアイテトス』)。ヘーゲルは、一方で「知恵 Wissen への愛」というときには「Wissen」を「知恵」(σοφία)として用いており、他方で「現実的な知識 Wissen」というときには「Wissen」を「知識」(ἐπιστήμη)として取り扱っているように思われる。

「Wissenshaft」の訳語に「科学」は不適当か

 「Wissenschaft」の訳語としては、樫山欣四郎訳は「学」を用いており、熊野純彦訳も「学〔体系的知〕」を用いている。したがって、「Wissenschaft」を「学」ないしは「学問」と取ることにはコンセンサスはあるが、このような常識に対して、筆者は「Wissenschaft」の訳語に「科学」を用いることができるかどうか考えている。

 「科学」といえば、さしあたり英語でいうサイエンス(science)つまり自然科学(natural sciences)が想起され得よう。もっともこれは狭義の用法であって、社会科学(social sciences)とか人文科学(humanities)といった場合にも「科学」は用いることができる。ただし、ヘーゲルの著作に「自然哲学 Naturphilosophie」は含まれている(『哲学的諸学問のエンツュクロペディー』)が、ヘーゲルの時代に今日のいわゆる「自然科学」はまだなかった*1

 サイエンス(science)はその語源としてラテン語のscientia(知識)を持つ。これは、古典ギリシア語のἐπιστήμη(エピステーメー、知識)に対応するから、「現実的な知識」を標榜するヘーゲルの「Wissenschaft」の意図とも合致する。

 日本語の「科学」の語源についても一瞥しておこう。

 佐々木力氏によれば、「科学」という言葉は前近代の中国から借りてきたもので、中国では西暦12世紀頃、すでに「科挙之学」の略語として使われており、日本では幕末から明治にかけて使われるようになったとのことである。ただ、その頃の「科学」は、もっぱら「個別学問」の意味で用いられていたらしい。佐々木氏の著書『科学論入門』(1996年)には、明治4年1871年)から明治7年(1874年)にかけて井上毅福澤諭吉西周といった当時の政治家や知識人が「科学」という言葉を「個別学問」あるいは「個別学科」といった意味で用いていたことが紹介されている。/「科学」という言葉は、このようにして日本社会に登場した後、明治が進んでいくに伴って、今日我々が使っている意味の言葉、すなわち英語の「science」に近い意味の言葉として定着していったようである。

(平野1999:372)

 一つ言えるのは、日本語の「科学」もドイツ語の「Wissenschaft」や英語の「science」のあり方も、その意味合いは時代とともに変化してきたということである。このように「知のあり方 Wissenschaft」の枠組みが変容したことを、トーマス・クーン(Thomas Kuhn, 1922-1996)は「パラダイムシフト paradigm shift」(『科学革命の構造』)と呼んだり、ミシェル・フーコーMichel Foucault, 1926-1984)は「エピステーメー épistémè」(『言葉と事物』)と呼んだりした。ヘーゲルが「この点についての満足のいく説明は、哲学そのものを叙述すること」だと述べた際には、そこにはまだ誰も呈示したことのない「哲学」があるとヘーゲルは考えていたことになる。

哲学は上級の学問=科学(ヴィッセンシャフト)に高まることができるか

 上のパラグラフでヘーゲルは、現代の我々からすると一見奇妙な主張をしている。ヘーゲルが「哲学が学問=科学(ヴィッセンシャフト)の形式に一層近づくため」とか「哲学を学問=科学(ヴィッセンシャフト)に高める時がきている」などと述べるとき、それは暗に〈哲学は学問=科学(ヴィッセンシャフト)ではなかった〉と主張しているに等しい。だが、ヘーゲルの主張に反して、むしろ〈哲学はつねにすでに科学(サイエンス)であった〉というのが、歴史的事実である。

 実際に歴史的事実として科学と哲学とは当初から截然と区別されてはいない。今日の科学の諸分科はすべてかつて哲学の問題であった。たとえば、「運動の法則」の如きものもデカルトからライプニッツやカントに到るまで歴代の哲学者の主要問題であった。このことは結局近世においてもかなり近時まで科学と哲学との分明な境界をもっていなかったことを示す。両者の限界が確立し、科学が科学として成立することがやがて哲学が哲学として成立することである。科学の成立は同時に哲学が科学からの超越——「形而上学」(Meta-physics)の成立にほかならぬ。科学は自己の原理と方法を自覚的に形成し、それによって認識の体系を組織することにおいて成立する。したがって科学の成立には必然的に自己の制限の自覚を伴う。しかるに哲学は常に無制限的なるもの、絶対的なるものを追求する。それゆえ、科学の成立——科学の制限の自覚は、同時に科学の制限の超越——形而上学を成立せしめる。科学が本来の意味での「自然学」(Physics)として形成される時哲学は「超自然学」(Meta-physics)となる。この区別のいまだ形成されない時にはいずれもひとしくphilosophy——すなわち「学問」であった。

下村寅太郎 2012『科学史の哲学』みすず書房、178〜179頁)

ヘーゲル以前から哲学はつねにすでに科学であった。にもかかわらず、ヘーゲルは「哲学を学問=科学(ヴィッセンシャフト)に高める時がきている」と述べているわけである。ということは、歴史的事実として近世まで「哲学」の営みと同義とみなされてきた「科学(サイエンス)」と、ヘーゲルが哲学がそれへと高められるべき「学問=科学(ヴィッセンシャフト)」とは、その内実が異なる、ということになる。

 おそらくヘーゲルの目指す「学問=科学ヴィッセンシャフト)」は、中世の大学(universitas, collegium)以降の文脈を踏まえつつ、とりわけ18世紀末から19世紀初頭において西欧の大学に出現した特殊近代的概念であると考えられる。さしあたり、トマス・ホッブズ(1588-1679年)は『リヴァイアサン』(1651年)の中で近世の大学について次のように述べている。

 今日、大学と呼ばれているものは、一つの統治の下で、同一の町あるいは都市にある多くの公共的な学校を一つにまとめ、一体化したものである。そこにおいて、主要な諸学校は三つの職業、すなわち、ローマの宗教、ローマ法、医術のためのものとして設立された。そして、哲学の研究のためには、大学はローマの宗教の侍女としての場所を持つだけであり、そこでは、アリストテレスの権威だけが流布しているので、その研究は正確には(その本性が著者に依存するものではない)哲学ではなく、アリストテレス学なのである。

ホッブズリヴァイアサン』第四十六章、加藤節訳(下)、468頁)

パリやボローニャなどの中世の大学では、古代の「自由学芸 artes liberales」の伝統を引き継ぐ「学芸学部 facultas artium」が、法学部・医学部・神学部という上級学部へ進むためのいわゆる教養課程として位置付けられていた。もっともホッブズがいみじくも指摘しているように、このときの大学で哲学と呼ばれるものは、学芸学部の主要な位置を占めていたアリストテレス哲学に他ならなかった。

 イマヌエル・カント(Immanuel Kant, 1724-1804)が『諸学部の争い』(1789年)の中で述べている文脈は、大学のこうした伝統を引き継いでいる。すなわち、医学部・法学部・神学部という上級学部に対して、哲学部が下級学部に位置付けられているとカントはいうのである。このときも「Wissenschaft」と見做されていたのは、やはり医学・法学・神学の三つであって、哲学は「Wissenschaft」未満であったというのが、やはり当時の大学における見解であった*2。そもそもカント以前の哲学者は大学に職を得た職業哲学者ではなかった。フィヒテの知識学=学問論(Wissenschaftslehre)やシェリング、シュライエルマハーらの学問論なども、こうした時代背景を視野に入れておく必要がある。

 以上の点を踏まえるならば、ヘーゲルが「哲学が学問=科学(ヴィッセンシャフト)の形式に一層近づくため」とか「哲学を学問=科学(ヴィッセンシャフト)に高める時がきている」などと述べた際に、想定されていたのは、哲学を医学・法学・神学と肩を並べる上級の学問に引き上げることであったと考えられよう。

ヘーゲルは誰と「協同作業」するのか

 ここでヘーゲルが「協同作業すること(ミットツーアルバイテン)」と述べている点に着目してみたい。ヘーゲルは不思議なことに、『精神現象学』という試みは、個人的に遂行されたものではない、と考えているようなのだ。実際、「個人(ペルゾーン)個人的( インディヴィデュエーレン)機縁やの偶然性」といったものは、ヘーゲルにとって重要視されていない。

 それでは、ヘーゲルは本書において「協同作業すること(ミットツーアルバイテン)」を、どのような仕方で実行したのだろうか。それは、ヘーゲルに先行して扱われてきた諸概念を綜合し、体系的に展開することによって、である。

(つづく)

文献

*1:この点にかんして大河内泰樹(1973年-)は次のように述べている。「自然科学と哲学とは、今日私たちが思い浮かべるようには、当時それほど厳密に区別されていなかったということである。例えば「生物学 Biologie/biology」という表現はヘーゲルの同時代人であるトレヴィラーヌスの造語であったが、彼が1802年に出版した本のタイトルは、『生物学あるいは生ける自然の哲学』であった。これをニュートンの『プリンキピア』と比べてもいいだろう。それは、『自然哲学の数学的基礎』(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica)と題されていたのであって、決して『自然科学の数学的基礎』ではなかったのである。今日私たちは彼らを自然科学者と呼ぶが、彼ら自身の理解では、彼らは自然哲学者だったのである。科学と哲学を分かつ今日的観点から、当時の科学と哲学を見ることは、我々の認識を誤らせることになるだろう。」(大河内泰樹 2024「正常な異常」、『生命と自然』所収、80頁)。

*2:今でも東大駒場に代表されるような旧教養学部の学問は、長らく法学や医学などの専門分野と比較して有益な学問とみなされておらず、教員も肩身が狭い思いをしているようなので、ヘーゲルが掲げた問題意識は現代においてもまだ通用するのかもしれない。