まだ先行研究で消耗してるの?

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山口周氏の「怒り」についてのTweetをめぐって

目次

はじめに

 先日、Twitter上で山口周(@shu_yamaguchi)さんが「怒り」について次のようにTweetしていた。

このTweetに対し、ネオ高等遊民@哲学youtuber(@MNeeton)さんは次のように引用リツイートしていた。

このネオ高等遊民さんの引用リツイートに対し、筆者は引用リツイートを行なった。その際、筆者のリツイートに対してQmQ(@gejiqmq)さんより幾つかのコメントを頂戴した。以下では筆者とQmQさんとの間で行われたやりとりの記録である。

筆者とQmQさんとのやりとり

荒川:山口周さんが言ってる「進化論的」の意味は「自然淘汰」説のことですね。「自然淘汰」説に拠らない進化論があり得るとすれば、厳密な言い方ではないかもしれません。

 

QmQ:私も決して専門家ではないのですが、まず、”怒りという感情を持つ”機能がどのように遺伝子にコーディングされているかが、この問題を考える時、大事になると思います。複数の遺伝子が複雑に絡み合っている場合、問題は非常に複雑になり、極端なケースとしては、例えば怒りだけを失うことは不可能かもしれません。他の重要な機能も道連れにしないとオフにできない実装かもしれない。そうでなくとも、怒りの機能を取り除くべく、一つ一つ遺伝子を置き換えていくときに、途中段階はもしかしたら非常にパフォーマンスが悪いかもしれない。また、怒りという感情が、よくもないけど決定的は悪くなく、よって排除されるほどでもない、という可能性もありますね。少し有害な程度の突然変異も、偶然集団中で固定してしまうこともあることが、理論的には知られています。ただしもちろん、有用である可能性もあります。一見意味不明な行動が子孫を残すことに対して有利に働きうるか、可能性を探ることは興味深いのではないでしょうか。(進化論的に安定かどうか)

 

荒川:山口周さんのTweetに立ち戻ってみると、「古代ギリシア以来、哲学者は「怒りは正しいか」という議論をしてきました」という部分までは正義論なんですが、その後の文章が感情の自然淘汰の問題にすり替わっているんですよね。結局、怒りは今でも残っているという事実から自然淘汰説を採用したとしても、最初に持ち出されている正義論のテーマであった「怒りは正しいか」ということには何も答えていないので、そもそも山口周さんが古代ギリシアに言及する必要があったのかどうかが疑問となります。そしてQmQさんのリプライにお答えすると、怒りという感情をオフにする場合に、その対極に位置する感情を道連れにするという予感はなんとなくわかります。怒りという感情が今でもあるよね、なんて言っている山口周さんは悠長なことを言っていて、実際、DVとかダブルバインドくらった現代人で感情の表出が苦手になった人は、怒っていないわけではないにせよ、その抑圧の結果、自身の怒りさえ自覚できなくなっているかもしれません。諸々の感情が自然淘汰されるならば、年を追うごとに人間の感情は概ね劣化していき貧しくなっていくはずです。しかし、決してそうはなっていないように見える。ということは、感情の豊かさというメンタルの部分とフィジカルな身体の機能における自然淘汰とは区別して考える必要があるのかもしれません。幼年期、青年期、壮年期と一人の人間のライフサイクルの中でも、感情の揺れ動きは(特に思春期において)振れ幅があるように思われます。「怒り」だけを取り出して云々するよりは、QmQさんもお気づきになられていらっしゃるように、他の感情とのダイナミックな相互作用をみることは大事だと思います。最近は「スペクトラム」というキーワードを目にすることが増えましたが、感情もスペクトラムのようなグラデーションとして捉え、そのうちのある閾値の一定の範囲を「怒り」として抽出して我々は捉えているにすぎないとも言えます。進化論的に生き残っているから必要な機能だったというのであれば、今我々が有しているすべての感情は必要な機能だし、つまり怒りだけでなく喜びや悲しみの感情についても同様のことが言えるわけで、ということは山口周さんは何か言っているようで実は何も言っていないに等しいのではないかと思います。

 

QmQ:感情は一つだけ取り出しても意味がなく、システムで考えねばならない、というのは重要なポイントだと思います。また、最初に言われたように、僕も正義論と進化論は相性が悪いと思います。前者は価値観の問題であり、損得勘定に還元する場合でも、最低、社会にとってのそれを考えないといけないけれど、進化はその特定の遺伝子が増えるかどうか、であるので、例えば今の例で有れば、ある感情システムを持つ人が他のタイプと共存した時、果たして子作りでどちらが優位になるかといことが問題になり、その結果がその集団にとって(何らかの意味で)良いかどうかはまた別の話になってしまいます。また、元のツイートで気になったのは、進化論という科学の理論を借りてくることで、結論を補強しようとする意図がある点なのですが、単に今残っているというだけでは、今まで対抗する別の感情システムがなんらかの理由で出てきていないだけかも知れないわけですね。この部分は本来は遺伝子レベルの仕組みがわからないと何も言えないはずです。一般的に、形質や行動の進化を数理的に論じる上で、このようにミクロの仕組みがわかっていないときは、その形質や行動そのものをよくよく分析するのです。例えばゲーム理論などを用いて人工的な環境下で実験をしたり、つまり、残っているから何か良いものなのでは、とは安直に言えなくて、意義を論じる価値があるかもね、という出発点であるだけで、その点でも、進化論を正当化に用いるのは違和感があります。

 

荒川:そうなんです。「怒りは正しいか」という議論は、進化論を経てもなお議論し得るテーマなので、山口周さんのように後段で進化論を持ってきても、それによって結論は何も補強されてないんですよね。進化論を踏まえた上でなお「怒りは正しいか」を議論すべきなんです。山口周さんが「怒り」をテーマにしようとするのは、ある種の逆張りですね。上の世代の人は「怒り」で人を動かせると思っていた人が多かったですが、コンプラとしてパワハラへの指摘が増えた結果、アンガーマネジメントのように管理職の「怒り」は自己内でコントロールされるべきものへと変わりました。端的に言えば、コンプライアンスが叫ばれる現代社会では「怒りは正しくない」という判断がすでに下されているわけです。しかし、この時代に抗い・後退するかように、山口周さんは「怒り」をテーマに肯定的に捉えようとしている。それは反時代的な主張となるので、一見すると悪手であるように見えます。

 

QmQ:全く仰る通りだと思います。

Twitter 2023年1月27日〜1月28日)

以上が筆者とQmQさんとのやりとりである。先日、小田さんとやりとりした際にも感じたが、自分一人でモノローグで書いていくよりも、他者との対話を通じてダイアローグとして書いていくと、思索も文章も驚くほど速く進んでいくことに気づいた。これはつまり、相手がいることを想定して書く場合と、そうではなく他者を想定しないで自己内対話のみで書いていく場合とでは、思考の系列が異なるのではないかという気づきを得た。例えば、今回のQmQさんとのやりとりでは、QmQさんが「遺伝子」という視点を持ち出されたのに対して、筆者は一度も「遺伝子」という語を用いることなくリプライを行なった。その理由は、筆者が「遺伝子」に言及できるほどの基礎知識を備えている自信がなかったからである。ここで「遺伝子」に言及できるほどの基礎知識とは何かというと、「遺伝子」がどういうものか全く知らないという意味ではなく、学術的にみて「遺伝子」について論じる際の適切な論じ方を知らない、という意味である。

かつて筆者は「怒り」についてどのように考えていたのか

 もうすっかり忘れていたが、筆者は5年以上前にこのブログにおいて「怒り」について言及していた。以下の文章は2017年11月14日の筆者の記事からの引用である。

突然ですが「怒り」とは何でしょうか。

僕は毎日、怒りの感情を感じることがあります。怒りたくなることがあるからです。

僕はこれまで「怒りとは負の感情であり、悪い感情である」と考え、怒りをネガティブに捉えていました。

しかし、先ほどふと、「怒りという感情に良いも悪いも無いのではないか。もし悪いことがあるとすれば、それは怒りの感情の処し方に問題があるのではないか」という考えが頭に浮かびました。

怒りとは人間の感情の1つであり、怒りは人間に莫大なエネルギーをもたらします。エネルギー運用の観点から見ると、怒りのもたらすエネルギーを上手く活用することが重要なのではないでしょうか。

もし僕が怒りをこれまでネガティブに捉えていたとすれば、それは自分が子供の時に大人から「怒ってはいけない」などと叱られたり、怒っている人を見て悪く思ったからかもしれません。しかし、「怒ってはいけない」と注意されたとすれば、その注意されている事柄とはおそらく「怒りの感情を自分の外に表現する振る舞い(それによって例えば他人を攻撃するなど)」に対してなされたものであって、怒りという感情を持つことそれ自体を禁止することは難しいはずです。怒りとは精神のうちに沸き起こる感情であり、人はそれを鎮めることしかできません。

もちろん怒りという感情の処し方が往々にして難しいがゆえに、負の感情、ネガティブな感情として捉えられてしまうのですが、人間の諸々の感情(喜怒哀楽)には絶対的にネガティブなだけの感情も絶対的にポジティブなだけの感情もなく、むしろ諸々の感情はネガテイブとポジティブの両面を合わせ持っているのかもしれません。

先ほどのように、怒りという感情を人間の活力、エネルギーと考えると、怒りという感情をポジティブに捉えることができます。

重要なことは、怒りという感情と、その表現形態とを区別することです。怒りという感情を抱いているからといって、その怒りをそのまま外に表現する必要は全然ないのです。むしろ溜め込みつつも加工して、別の形で昇華することが、怒りという感情のポジティブなエネルギー運用なのだと思います。

(「怒りの感情をエネルギーとしてポジティブに活用する」2017年11月14日)

これは筆者が28歳の時に書いた文章である(ちなみに筆者は現在33歳である)。ブログに自らの思考を書き残しておくことは、後になって未来の自分が過去の自分の思考を反省することができるし、もし陳腐な言説を聞いた際には『そんなことは自分はとっくの昔には考えていたよ』と言えるので便利である。