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ライプニッツ『モナドロジー』覚書(3)

目次

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ライプニッツモナドジー』(承前)

「単純な実体」の〈集合〉としての「複合体」

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

2 複合体があるからには,単純な実体がなくてはならない.複合体とは,単純な実体の集まりないし〈集合〉に他ならないのである.

(Leibniz1839: 705,Leibniz1885: 607,谷川・岡部訳13頁)

ここでは「集合 aggregatum 」(aggregatumはラテン語aggregatusの男性単数対格)という言葉だけが隔字体で強調されている.この「集合」とは,数多くの「単純な実体」が群れのように集まって一つのかたまりを形成しているようなイメージであろう.

 (谷川・岡部訳ではcarが訳出されていないが)「というのも car 」以下の文は,その直前の「複合体があるからには,単純な実体がなくてはならない」という文の論理的な理由を示している.すなわち,「複合体があるからには,単純な実体がなくてはならない」という推論が成立するためには別の前提を必要とする.その前提こそが「複合体とは,単純な実体の集まりないし〈集合〉に他ならない」ということなのである.

 ライプニッツにとって「単純なもの」という存在が「複合的なもの」を成立させる前提条件であるということは,『理性に基づく自然と恩寵の原理(1714年)』(Principes de la Nature et de la Grace, fondés en raison, 1714)では次のように述べられている.

複合的なもの,すなわち物体は,多である.そして単純な実体,生命,魂,精神は,一である.単純な実体は至るところにあるはずだ.なぜなら,単純なものがなければ,複合的なものもありはしないだろうから.したがって,自然全体は生命に満ちている.

(Leibniz1885: 598,谷川・岡部訳77頁)

ここで「単純な実体」が「生命,魂,精神」であり,「複合的なもの」が「物体」とされていることから,ライプニッツはある種の〈物心二原論〉を展開していると言えるだろう.加えてここでライプニッツは「単純な実体」と「複合体」の関係を,「一」と「多」の関係として捉えているが,両者は矛盾する対立概念というよりは,むしろ同一の存在が有している二つの側面として理解されるべきなのかもしれない.

 ちなみにハインリッヒ・ケーラーのドイツ語訳では次のように訳されている.

§2 〈複合体 composita 〉があるからには,そうした単純な実体がなくてはならない.というのも,複合物とは,単純な実体の集合メンゲないし〈総計アグレガート〉に他ならないからである.

(Leibniz1720: 2)

Mengeというドイツ語は,数学上の概念としては「集合」を意味する.ライプニッツが数学を得意とする万能人だったことを考慮すると,もしかするとケーラーはMengeという訳語を用いることによって,そこに数学上の含意を持たせたのかもしれない.

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