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ライプニッツ『モナドロジー』覚書(2)

目次

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ライプニッツモナドジー』(承前)

「単純な実体」としての「モナド

(1)エルトマン版(1839年

(2)ゲルハルト版(1885年)

1 私たちがここで論じるモナドとは,複合体のなかに入る単純な実体に他ならない.単純とは,部分がないことだ.

(Leibniz1839: 705,Leibniz1885: 607,谷川・岡部訳11頁)

一瞥して分かる通り,ゲルハルト版にある隔字体の強調が,エルトマン版には存在しない.ゲルハルト版の強調は,後に見るケーラー訳の強調部分と近い(が違う箇所もある).

 「諸々の複合体 composés 」「単純 simple 」「実体 substance 」 「諸部分 parties 」,これらはいずれも「モナド Monade 」を理解するための重要なキータームである.「モナド」という「単純な実体」が「諸部分なしに sans parties 」存在するということは,すなわち「モナド」が諸々の「複合体」を構成する要素とはなり得ても,「モナド」それ自体が「複合体」ではないことを意味している.

 ハインリッヒ・ケーラーはこの箇所を次のようにドイツ語に訳している.

§1 私たちがここで語るモナドとは,そこから複合物ないし〈複合体 composita 〉が構成されているところの,単純な実体に他ならない.「単純な」という言葉の下に解されるのは,部分を持たないそれである.

(Leibniz1720: 1-2)

ケーラーのドイツ語訳は,上のゲルハルト版と文意は同じだが,冒頭の「モナド Monaden 」は複数形になっており,「単純な実体 einfache Substanzen 」という箇所に強調が入っている.compositaはラテン語compositusの中性複数主格である.これらの語はケーラーの解釈よって複数形へと翻訳されたのかもしれないが,他方でライプニッツ自身がフランス語では「モナド」を単数形で記述していることの意味についてはしっかりと考えなければならないであろう.

 ここでケーラーは「モナド」に次のような注を付けている.ケーラーはこの草稿に初めて「モナドジー」という表題を与えた人物であるから,この注はいちおう傾聴に値すると思われる.

(a)「モナド Monade 」すなわち「モナス Monas 」という言葉は,周知のようにギリシャ語〔μονάς〕にその由来を持ち,もともとは「一なるもの Eines 」を意味する.この言葉を残しているのは,英仏の慣習に従って,諸々の作り言葉を短音節の簡潔さのために残しておき,ドイツ語の語尾でいわば自ずと帰化させる naturalisiren 高尚な学者を先蹤としているからである.セレナーデやカンタータ,エレメントおよびそのような言葉を,それが外国の言葉であるにもかかわらずドイツ語に無数に残している以上,私が短音節の簡潔な表現のために「モナド Monade 」という言葉や他のそのような作り言葉を使用しても不都合 inconvenient ではないと私は信じたのである.多くのものはまだ通常ならざるものなので,最初は無韻のばかげたものであるように見えるが,しかし私は,通常ではないものが合理的な原因を根底に持っているならば,それを無韻のばかげたものとみなすことはできないと考えている.

(Leibniz1720: 1-2)

「モナス」というギリシア語については,ライプニッツ自身が『モナドジー』と同年に著した『理性に基づく自然と恩寵の原理(1714年)』(Principes de la Nature et de la Grace, fondés en raison, 1714)の中で言及していた*1.ケーラーは「モナド」という造語が,ギリシア語の「モナス μονάς 」を語源とするのみならず,その音韻のレベルで連続性を保っていることを指摘している.このような指摘が行われているのは,「モナド」という音韻がドイツ語としては「通常ではない ungewöhnliche 」,そしてどこか違和感を感じるようなものであるからだろう.だが「モナド」の音韻には,使用に堪えうるだけの「合理的な原因 vernünfftige Ursache 」が十分に備わっているとケーラーは述べているのである.

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文献

*1:モナスというのはギリシア語であり,「一」もしくは「一なるもの」を意味している.」(Leibniz1885: 598,谷川・岡部訳77頁).