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スピノザ『エチカ』覚書(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

 

(承前)第一部 神について

他の定義についてもざっと目を通しておこう。

「類」と有限性・限定性

 定義二では「類」の概念が述べられる。

二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。

Spinoza 1677:1、訳37頁)

「自己の類」とはおそらく「同じ本性」(この場合、同じ範疇(カテゴリー)のものと呼んでも良いかもしれない)を持つ同士の群(グループ)のことであろう。

 「物体」と「思想」とは「同じ本性」を有していない。つまり両者は同じ範疇(カテゴリー)のものではない。だから、「物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりする」というのは、いわばカテゴリーミステイクをおかしているから成立しないことになる。

 ビジネスで言うところの"compare apples to oranges"や"apples to apples"などといわれる慣用句も似たようなことを表現していると言えるかもしれない。もしかすると比較とは本来的に「有限化作用」の謂なのだろうか。

自己充足せる「実体」

 定義三は「実体」の概念について述べられている。

三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。

Spinoza 1677:1、訳37頁)

スピノザによれば「実体」とは、いかなる他者をも自分自身の構成要素として必要としない概念のことである。本来性、固有性とでもいうべきものだろうか。

「属性」と構成物

 定義四は「属性」について述べられたものだが、この定義は解釈史上でも問題含みだと言われている。 

四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。

Spinoza 1677:1、訳37頁)

「属性」をこのように理解するのは「私」である。一方「実体についてその本質を構成していると知覚する percipit 」のは「知性 intellectus 」である。

 この「知性」はどういう位置付けなのだろうか。第三者的な存在なのだろうか。

 定義三より「実体」は自己内存在であって、他者の存在を必要としない概念であるのに、「その本質を構成している」ものは「実体」にほかならないはずだ。というのも、「実体」の本質が何か別のものによって構成されるなら「実体」ではないのだから。とすれば、結局「属性」とは「実体」にほかならない。

 スピノザは「実体」の構成要素を「属性」と呼びたいようだが、これは表現するのがなかなか難しい概念だ。「属性」は「実体」の外部から、つまり「知性」の側からみなされたあり方だと言える。

「様態」と他なるあり方

 定義五では「様態」について述べられる。

五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。

Spinoza 1677:1、訳37頁)

要するに「様態」とは「実体」が他なるあり方へと変化したものの謂いであり、これを「実体の変状」とスピノザは呼んでいる。このような発想は、流出する一者の概念にありそうであるし、また後のドイツ古典哲学にも影響を及ぼしているような気がする。

神と無限性

 定義六は「神」について述べられている。

六 とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。

説明 私は「自己の類において無限な」とは言わないで、「絶対に無限な」と言う。なぜなら、単に自己の類においてのみ無限なものについては、我々は無限に多くの属性を否定することができる〈(言いかえれば我々はそのものの本性に属さない無限に多くの属性を考えることができる)〉が、これに反して、絶対に無限なものの本質には、本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである。

Spinoza 1677:1〜2、訳38頁)

スピノザのいう「神」を理解する鍵は、「無限(性)」の把握にかかっている。

「自己の類において無限な」あり方と「絶対に無限な」あり方の違いはなんであろうか。「自己の類」については定義二で述べられていた。「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる」(定義二)。「絶対に無限な」あり方は「自己の類」を超越している。

「永遠」と「無限」が並べられている点については後で触れることにする。

自律と他律

 定義七は、いわゆる「自律」について述べたものと解釈できる。

七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。

Spinoza 1677:2、訳38頁)

ここでは「自由な」あり方と「必然的な」あり方という二つの区別が示されている。自分で自分を規定する自律的なあり方が「自由な」あり方と呼ばれ、他者によって自分が規定される他律的なあり方が「必然的な」あり方と呼ばれている。

 自由と必然性をステレオタイプな対立概念と見なす場合、「自由な」あり方が「自己の本性の必然性」と一致していることに疑問を抱くかもしれない。しかしそういう通俗的観念は、すでにホッブズにおいて退けられているのでここで繰り返す必要はないであろう。 

永遠=存在

 定義八でスピノザは「永遠(性)」という時間的概念を「存在」という非時間的概念に還元している。

八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。

説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである、たとえその持続を始めも終わりもないものと考えようとも。

Spinoza 1677:2、訳38頁)

 スピノザ自身も、「永遠(性)」という概念が通常、時間的概念であることは認識している。しかし、「永遠」とはあるものがずっと在るということ(始点と終点があろうとなかろうと)であり、それはもはや「存在そのもの」のことであろう、というのである。

 これはなるほど一本取られた、という感じだが、「永遠(性)」とは——通常は時間的な意味においてだが——「無限(性)」のことであろう。実際、スピノザは定義六において「永遠」と「無限」を並べている。「神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する」(定義六)。

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