まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

スピノザ『エチカ』覚書(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

他の定義についても概観しておこう.

「類」概念の有限性と規定性

定義二

 同じ本性の他のものによって限定されうるものは,自己の類において有限であると言われる.例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる.同様にある思想は他の思想によって限定される.これに対して,物体が思想によって限定されたり,思想が物体によって限定されたりすることはない.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

「物体」と「思想」とは「同じ本性」を有していない.両者は同じ範疇ではない.「物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりする」というのは,カテゴリーミステイクをおかしていることになるので成立しない.

「実体」概念

定義三

 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,すなわちその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と私は解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

「実体」とはいかなる他者をも自分自身の構成要素として必要としない概念のことである.本来性,固有性とでもいうべきものだろうか.

「属性」と構成物

 定義四は「属性」について述べられたものだが,この定義は解釈史上でも問題含みだと言われている.

定義四

 属性とは,知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの,と私は解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

「属性」をこのように理解するのは「私」である.「実体についてその本質を構成していると知覚する percipit 」のは「知性 intellectus 」である.

 この「知性」はどういう位置付けなのだろうか.第三者的な存在なのだろうか.

 定義三より「実体」は自己内存在であって,他者の存在を必要としない概念であるのに,「その本質を構成している」ものは「実体」にほかならないはずだ.というのも,「実体」の本質が何か別のものによって構成されるなら「実体」ではないのだから.とすれば,結局「属性」とは「実体」にほかならない.

 スピノザは「実体」の構成要素を「属性」と呼びたいようだが, これは表現するのがなかなか難しい概念だ. 「属性」は「実体」の外部から, つまり「知性」の側からみなされたあり方だと言える.

「様態」概念と「変状」としての他在

 定義五では「様態」について述べられる.

定義五

 様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの,と私は解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

「様態」とは「実体」が他なるあり方へと変化したものの謂いであり,これを「実体の変状」とスピノザは呼んでいる.このような発想は,プロティノスの流出説(Emanationism)にありそうだが,同時にまたドイツ古典哲学にも影響を及ぼしていると思われる.

スピノザの「神」理解

定義六

 〈神〉とは,絶対に無限なる実有, 言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,と私は解する.

説明

 私は,絶対的に無限な, と言うのであって, 自己の類において無限な, と言うのではない. なぜなら, 単に自己の類においてのみ無限なものについては, 我々は無限に多くの属性を否定することができるが, これに反して, 絶対的に無限なものの本質には, 本質を表現し・なんの否定も含まないあらゆるものが属するからである.

(Spinoza1677: 1-2,畠中訳(上)38頁)

「絶対的に無限な」あり方と「自己の類において無限な」あり方の違いは何であろうか.「自己の類」については定義二で述べられていた.「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる」(定義二).「絶対的に無限な」あり方は「自己の類」を超越している.

自律と他律

 定義七はいわゆる「自律」について述べたものと解釈できる.

定義七

 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に規定されるものは,自由であると言われる. これに対して,ある一定の様式において存在し・作用するように他から規定されるものは〈必然的〉である,あるいはむしろ強制されると言われる.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)38頁)

ここでは「自由な」あり方と「必然的な」あり方という二つの区別が示されている.自分で自分を規定する自律的なあり方が「自由な」あり方と呼ばれ,他者によって自分が規定される他律的なあり方が「必然的な」あり方と呼ばれている.

 自由と必然性をステレオタイプな対立概念と見なす場合,「自由な」あり方が「自己の本性の必然性」と一致していることに疑問を抱くかもしれない.しかしそういう通俗的観念は,すでにホッブズにおいて退けられている.

永遠=存在

 定義八でスピノザは「永遠性」という時間的概念を「存在」という非時間的概念に還元している.

定義八

 永遠性とは,存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り,存在そのもののことと私は解する.

説明

 なぜなら,このような存在は,ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ,そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されえないからである,たとえその持続を始めも終わりもないものと考えようとも.

(Spinoza1677: 2,畠中訳(上)38頁)

スピノザ自身も「永遠性」という概念が通常, 時間的概念であることは理解している.しかし「永遠性」とはあるものがずっと在るということ(始点と終点があろうとなかろうと)であり,それはもはや「存在そのもの」のことであろう, というのである.

 これは『なるほど一本取られた』という感じだが,「永遠性」とは——通常は時間的な意味においてだが——「無限性」のことであろう.実際,スピノザは定義六において「永遠性」と「無限性」を並べている.「神とは,絶対に無限なる実有,言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,と私は解する」(定義六).

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(3)

目次

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

 「定義」の内容についてもう少し詳しく検討を加えてみたい.

「私」という主語,抹消された主体

 「定義」の中でも真っ先に掲げられているのが「自己原因」である*1

一 自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

intelligoというラテン語は,intelligō(理解する)という動詞の直接法・能動態・現在・一人称・単数である.「自己原因〔という言葉〕によって私が理解する intelligo のは,以下のことがら id である」という意味である.

 ラテン語原文には英語のIやドイツ語のIchのように「私」という主語が文字通りには表記されていないが,ラテン語では主語は動詞の人称変化によって明確に表記されている.したがってここでは主語の不在を示しているのではない.しかしながら,これが「解する」という日本語の動詞に翻訳されるやいなや,それだけではラテン語の動詞に内在する変化形をすべて表現できない.つまり,翻訳によって主語の欠落が生じてしまうことになる.だが,これはあくまで日本語という言語に固有の問題であって,『エチカ』のテクストそのものに内在する問題ではない.

 この箇所は,工藤・斉藤訳『エティカ』では次のように訳されている.

一 自己原因とは,その本質が存在をふくむもの,いいかえれば,その本性が存在するとしか考えられないもののことである.

(Spinoza1677: 1,工藤・斉藤訳)

ここでは主語は「自己原因」であり,もはやそれを理解する「私=筆者」という主体=主語どころではない.「理解する intelligo 」ということさえもが,どこかに消えてしまった.これは一体どういうことであろうか.

 上野修(1951-)の解釈においては,「私=筆者」という主体=主語は,その存在そのものが抹消されてしまっている.

 だれもが知るように*2,『エチカ』の言説の際立った特徴はその非人称性にある*3.じっさい論証という形をとる『エチカ』の言説は諸々の定義,公理,先行する諸定理から自らを導き出していくわけで,まるでひとりでに展開するように見える.「論証がそれ自身に語りかけているのだ」とさえ人は言いたくなるだろう*4.だが正確にいって,論証の中でいったい誰が語っているのだろうか*5.こう言ってよければ,論証しつつある論証主体とは何者なのか.著者スピノザ?いやそうは言えない.われわれはユークリッド幾何学の論証を辿るさい,ユークリッドその人の再生された声を聞き取っているわけではあるまい.それと同様,われわれはスピノザの声を聞き取っているわけではない.たしかにそれはスピノザという名の人物によって書かれたテクストかもしれないが,著者自身がそう望んだように,論証の真理は著者のいかなる伝記的要素にも左右されてはならないのである*6.それゆえ,『エチカ』の中で語っている論証の主体は誰でもありはしない.いやむしろ,それは何か人称的実質を欠いた,名もなき主体のようなものなのだ.これが『エチカ』の根源的な非人称性である.

…(中略)…

 ひるがえって『エチカ』を見れば,その幾何学的秩序に欠けているのは,まさにこの一人称の「語る〈わたし〉」にほかならない.このことは,著者スピノザがもっぱら間欠的に,論証の糸の外部に位置する備考という形でしか一人称で介入しないという事実からも明白である.『エチカ』の言説は「わたし」といって語るどころか,いったい誰がその主体であるのか言明されないまま諸定理が述べられてゆく.

(上野1993:83-84)

ここまで上野が長々と一人称の主体の欠如を語っているのを見ると,上野がラテン語原文でスピノザ『エチカ』を読解していないのではないかという疑いを禁じ得ない.上野が云々する『エチカ』の非人称性は事実ではなく,繰り返すが冒頭1行目の定義一からすでに一人称の「私」が登場するのである.

 こうしてみると,翻訳書で『エチカ』を理解するのは心許ない気がしてくる.二次文献ではあるが,最近出版されたもので最もユニークによく練られた訳文は,秋保亘(1985-)の手による以下の訳文である.

「自己原因ということによって私は,その本質が実在を含むもの(id cujus essentia involvit existentiam),あるいはその本性が実在すると〔して概念する〕以外には概念されえないもの(id cujus natura non potest concipi, nisi existens)と知解する」[E1Def1]

(秋保2019:150)

ここで秋保は主語である「私」を明確に訳出するとともに,intelligoが「知性」と関わる動詞であることを示すべく「知解する」と訳しており,またconcipiも「概念」と関わる動詞として訳出している.こうした点はラテン語原文で読む読者にはすでに周知のことがらであったが,印刷物ではどういうわけかなかなかお目にかかれない訳出なのである.

 もっとも「私=筆者」という主語の復権を云々したからといって『エチカ』全体の解釈が大きく刷新されることにるのかどうか,私にはまだよく分からない.しかし「私=筆者」の視点をあらためて明確にすることは,上記の如くに誤読されてきた『エチカ』解釈のためのひとつの試みとしては面白いのではなかろうか.

「自己原因」の解釈と「神の存在証明」

 その「自己原因」を, 我々つまり読者が理解するためには,「あるいは sive 」で並置された二つの事柄でもって総合的に理解しなければならないであろう.「その本質が存在を含むもの」と「その本性が存在するとしか考えられえないもの」の両方に共通するのは「存在」である.

 あらゆる存在者に先行してアプリオリに絶対的に存在するもの,他のものを自己の存在理由としないもののことを,スピノザは「自己原因」と呼んでいるのではないだろうか.

 いわゆる「神の存在証明」として有名であるが,こうした考え方はアリストテレスの「第一原因」に似ている.アリストテレスは「第一原因こそが神だ」と述べた.しかし,スピノザは「自己原因が神だ」とは述べていない.スピノザがそういう直截的な言い方をしていないのは何故であろうか.

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文献

*1:スピノザの「自己原因」とデカルトのそれとの比較については中野2003をみよ.

*2:実は誰もが知り得るのだが。

*3:『エチカ』の言説の特徴が非人称性にあるように見えるのは,ラテン語を読めない人がいるからである.

*4:全然.むしろスピノザが頑張って論証のようなものを展開している様子が窺える.

*5:スピノザだろう.

*6:「論証の真理が著者のいかなる伝記的要素にも左右されてはならない」というのも結局一つの立場にすぎない.

スピノザ『エチカ』覚書(2)

目次

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スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について

定義

定義

一 自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する.

二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる.例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる.同様にある思想は他の思想によって限定される.これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない.

三 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する.

四 属性とは,知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの,と解する.

五 様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの,と解する.

六 とは,絶対に無限なる実有,言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,と解する.

(…中略…)

七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる.これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である,あるいはむしろ強制されると言われる.

八 永遠性とは,存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り,存在そのもののことと解する.

(Spinoza1677: 1-2,畠中訳(上)37〜38頁)

第一部には八個の「定義」が登場する.他の各部門を見ても「定義」は八個以上は出て来ない.スピノザは「定義」の数を必要最小限にするべく,何度も何度も思考を研ぎ澄ましたはずである.

隔字体のない原文

 上の「定義」の引用をし終わったところで私は大変驚いてしまった.畠中訳『エチカ』には傍点による強調がある.しかしながら,『スピノザ遺稿集』(Opera posthuma, 1677)に収録された『エチカ』初版には,隔字体による強調がないのである.私の記憶では過去に『エチカ』を大学院のラテン語原典購読の授業で読んだ時には,確かに強調があったはずである.隔字体やイタリックによる強調は,テクスト解釈の鍵となり得る(ヘーゲルのテクストがまさにそうだ).その限りでスピノザ『エチカ』の原文にもともと強調があったのか否かは重要な事柄であると言える.

「定義」における「幾何学的秩序」

 定義一から定義五は基本的な定義とでも呼ぶべきものであり,これによってはじめて定義六で「神」の理解が示されている.

 定義が登場する順番,その「幾何学的秩序」はいかにして考慮されているのだろうか.もし定義六が第一部の最初の定義として逆に展開されていたらどうだったであろうか.

とは,絶対に無限なる実有,言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性(→定義五)から成っている実体(→定義三),と解する.」(定義六)

┗「様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの(→定義二),と解する.」(定義五)

┗「属性とは,知性が実体(→定義三)についてその本質を構成していると知覚するもの,と解する.」(定義四)

┗「実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの(→定義一),言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する.」(定義三)

┗「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる.例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる.同様にある思想は他の思想によって限定される.これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない.」(定義二)

┗「自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する.」(定義一)

定義の順序を逆にするだけで,定義一から定義五は,定義六を説明するための要素と化する.

 スピノザは哲学のテクニカルタームを定義していない.「本質」「本性」「存在」などは,ここでは自明のものとして用いられている.しかしこれらの概念は,決して自明なものではあり得ない.

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文献

スピノザ『エチカ』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではスピノザ『エチカ』(畠中尚志訳,岩波文庫)の読解を試みたいと思う.

 筆者は一橋大学大学院社会学研究科の平子友長先生のラテン語原典購読の授業でスピノザの『エチカ』を読んだことがある.若干24歳であった当時はラテン語の原文を追うだけで精一杯だった.そのため,『エチカ』の内容を詳しく検討する余裕がなかった.その時に果たせなかった読解作業を以下で試みたいと考えている.

スピノザ『エチカ』

 バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza, 1632-1677)の『エチカ』(Ethica)は,彼の生前に出版することが叶わず,彼の死後『スピノザ遺稿集』(Opera posthuma, 1677)に収められて出版された.「エチカ」という語を畠中尚志は「倫理学」と訳している.「倫理学」とは一体何であろうか.そもそもスピノザの「エチカ」は「倫理学」なのか.本書では道徳や規範についてはほとんど書かれていないように見える.もしかしてスピノザはその透徹なまなざしで事象を捉え記述したことによって,「倫理学」の意味そのものを刷新してしまったのだろうか.であるならば,スピノザの「エチカ」はいかなる意味で「倫理学」なのだろうか.この点について江川隆男(1958-)は次のように述べている.

『エチカ』に結晶化されたスピノザの哲学は,アリストテレス以来の〈形而上学メタ・フィジック〉などではけっしてない.人は,スピノザの哲学に「形而上学」の思考を想定すべきではない.それは,むしろまったくの-形而上学としての自然学フィジック〉ではないのか.そして,それは,同様に〈道徳学モラル〉などではけっしてない.というのも,それは,むしろ-道徳主義としての倫理学エチカ〉だからである.こうした意味での〈自然学〉と〈倫理学〉との完全な融合が,まさに『エチカ』の思考の根本をなしている.言い換えると,スピノザは,哲学を形而上学と道徳主義から解放したのである.

江川2019:4)

ごく一般的に「哲学」といえば「形而上学」が観念され,「倫理学」といえば「道徳学」が観念される.だが,スピノザはそのどちらをも退けた上で『エチカ』を呈示したと江川はいうのである.少なくともスピノザの「エチカ」が,いわゆる「倫理学」とは異なった位置付けを持っているは間違いないであろう.

幾何学的秩序

幾何学的秩序に従って論証された

    エチカ

(Spinoza1677,畠中訳(上)35頁)

この表紙には「幾何学的秩序に従って論証された/エチカ」とある.この「幾何学的秩序」とは一体何であろうか.

 定義から始まって公理,定理およびその証明へと進んでいく叙述様式のことを,スピノザは「幾何学的秩序に従って論証された」とする.このような叙述様式は哲学書思想書においては極めて独特であり,この点がスピノザスピノザたらしめているといっても過言ではない.

スピノザ以前のユークリッド幾何学の哲学者への影響——ホッブズの場合

 トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes, 1588-1678)は,欧州を旅して最新の科学に触れ,ユークリッド幾何学に影響を受けたおかげで晩年の三部作を書き残したと言われている.

 ウィリアムの突然の死によってキャヴェンディッシュ家を一時離れることになったホッブズは,近隣の貴族クリフトン卿に請われてその子息の「グランド・ツアー」に同行し,一六二九年から三〇年にかけてフランスとスイスを廻る.「幾何学との恋に落ちた」というJ・オーブリーによる『名士列伝』の言葉であまりにも有名な,エウクレイデスの『原論』との出会いは,この二度目の大陸旅行のおり,ジュネーヴに滞在中のことであったと言われている.

 さる紳士の邸宅の図書室で,開いて置かれてあったその書物にたまたま目を留めると,その個所は第一巻の定理四七,すなわち有名な「ピュタゴラスの定理」の証明であった.ホッブズは定理を読み,当初それが真理かどうかを人間が知ることは不可能であると思ったという.ところが,証明を読み,さらには先立つ諸定理から最初の諸原理(定義)にまで遡ってみたとき,彼はその真理性をついに確信せざるをえなかった.明確な定義から出発して,真理(定理)を演繹的に論証していく幾何学の方法は,ホッブズがそれまで慣れ親しんできた,多彩なレトリックを駆使して読み手(あるいは聴き手)を説得していく「人文主義」の手法とは,まったく異質なものであった.

 もちろん幾何学やエウクレイデスやピュタゴラスの定理について,彼がこのときまで何も知らなかった,とは考えにくい.ただ,幾何学的方法の真の意義に初めて気づいた,ということは十分ありうるだろう.大学で学んだスコラ哲学にも,最初にイタリア訪問で出会った人文主義にもなかった,議論の余地のない確実な「学知」(scientia; science)を獲得する「方法」の実例が,そこには示されていたのである.

伊豆藏2007:66-67)

とはいえホッブズスピノザユークリッド幾何学に影響を受けながら,両者の叙述の仕方は大きく異なっている.

スピノザ幾何学的秩序

 そもそもスピノザユークリッド幾何学とどのようにして出会ったのだろうか.この点については残念ながらスピノザのいわゆる「破門」以後の資料が乏しいとされ,伝記資料を読んでいても判然としない.スピノザ幾何学的秩序に関心を持ち始めたのはどうやら『神・人間そして人間の幸福に関する短論文』(生前未刊行)を書いた頃のようである.

スピノザが『短論文』を印刷しなかった理由の一つは,おそらく,彼がその表現形式に不満であったという点にある.彼はこのころすでに,定義・公理・定理をもとに命題を証明する(そして証明された命題は定理に追加される)という幾何学的秩序に関心をもち始めていた.彼は四つの命題を幾何学的に証明し,それを『短論文』の付録とする.幾何学的秩序を実地に試してみたのである.これ以後スピノザは,『短論文』を内容的に練り上げるとともに,新たな中身を幾何学的秩序のもとで表現するという作業に着手する.彼は,まとまった原稿ができるたびに,それをアムステルダムの「スピノザ・サークル」に送り始める.まさしくこの原稿が,後年の『エティカ』の最初期の草稿にほかならない.

松田2007:398)

その後スピノザは「スピノザ・サークル」の友人たちの期待に応え,デカルト哲学を幾何学的に再構成した『デカルトの哲学原理』(Renati Descartes principia philosophiae, more geometrico demonstrata, 1663)を出版している.

 なぜスピノザは叙述様式に幾何学的秩序を採用したのだろうか.デカルト哲学の影響だったのだろうか.この点については正確なことは言えないが,少なくともスピノザがその叙述様式に幾何学的秩序を採用したことによって,本来の幾何学的秩序の形式とスピノザの『エチカ』における叙述様式との間に相違があることが明らかにされてきた.

たしかに,スピノザ幾何学的秩序を採った主要な理由は,『省察』付録「第二答弁」においてデカルトが言うように, それが説得法——「同意を奪取する」方法——として有効であるという点にあったのであろう.しかしながら,われわれが『エティカ』を読解するためには,「実体」「属性」「様態」「神」といった基本用語をスピノザが線形的かつ構文論的にいかに並べ替えて諸命題を紡ぎ出しているかを考察しても実際問題として不毛なのである.そのような数学的潔癖さを求めるなら,われわれは数学者・論理学者としてのライプニッツが『エティカ』について再三記したのと同じ批判を繰り返さねばならないであろう.「『エティカ』において彼〔スピノザ〕は,かならずしもつねに,みずからの諸命題を十分に説明しているわけではない.私はこの点に判然と気づいている.論証の厳密さから逸脱したために,彼はときとして誤謬推理を犯しているのである」.また「たしかにスピノザは論証についてたいして熟達しているわけではない」.

松田2007:415〜416)

松田によれば,「公理体系で書かれているかぎりは, 後続する諸命題が先行する諸命題から積み上げ式に,かつ,構文論的(形式論理的)に導出されねばならない」(松田2007:414)が,「『エティカ』における実際の「論証」はそのような線形的かつ構文論的な秩序では書かれていない」(松田2007:414)という.スピノザは『エチカ』の外観とは異なって,幾何学的秩序にはそれほど厳密には習熟していなかったものとみなされている.工藤喜作は幾何学的秩序についてのスピノザユークリッドの相違点について次のように述べている.

エチカに於いて示された幾何学的方法とは,論証の綜合的な方法であって,ユークリッドをそのモデルにしたものであった.しかしそれはすでに指摘した如く外面的なものに止まり,その内面にいたらなかった.彼はユークリッドからその哲学を説明するため多くの例を借用したとは云え,その方法の基礎たる定義に於いて,またその根源の認識たる直観知に於いてユークリッドとは異なるものがあった.彼に於いて精神に真に関係する幾何学的秩序は,imaginatioを援用してでなく,精神それ自身から生ずる純粋な知的な秩序である.斯かるものは最早ユークリッドには見当らない.直観知や定義に於けるデカルトの影響を考慮するならば,デカルトがその「方法序説」第二部に於いて示した方法の四つの規則,或いはレグラエに於いて詳細に論じた広義の幾何学的方法が,スピノザ幾何学的な方法でもあったことは疑い得ないところである.

工藤1959:33)

実際にスピノザ幾何学的方法による論証がどのようなものなのかについては,これから本文とともに次第に検討していきたいと思う.

幾何学の発展——ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学

 そもそも「幾何学」とは何だろうか.これはもともと古代ギリシャ語のγεωμετρίαすなわち「土地 γη, geo- 」を「測量すること γετρεω, metron 」の謂である.

 ユークリッド幾何学と呼ばれるものは,アレクサンドリアエウクレイデスΕὐκλείδης, 300 BC)の編纂したいわゆる『原論』(Στοιχεῖα)に収められている.点や線,直線などの「定義」から出発し,「公準(要請)」「公理(共通概念)」へと進む.

 このユークリッド幾何学はすでに数多くの批判にさらされてきた.平行線公準が成立しないことから非ユークリッド幾何学が生まれた.ユークリッド幾何学はいわば「平面上の幾何学」だが,非ユークリッド幾何学はいわば「曲面上の幾何学」である.ヒルベルトの『幾何学基礎論』も欠かせない.

 いまスピノザの『エチカ』を読むということは,こうした幾何学の発展も無視できないものと考える.スピノザのいう「幾何学的秩序」とはいかなる意味で「幾何学的」なのだろうか.ユークリッド幾何学の先に非ユークリッド幾何学が成立したように,ユークリッド=平面「幾何学的秩序に従って論証された」スピノザの『エチカ』の先には,もしかすると非ユークリッド=曲面「幾何学的秩序に従って論証された」非スピノザ的エチカもまた成立するかもしれない.

本書の部門構成

五部に分たれ,その内容左〔以下〕の通り

第一部 について

第二部 精神の本性および起源について

第三部 感情の起源および本性について

第四部 人間の隷属あるいは感情の力について

第五部 知性の能力あるいは人間の自由について

(Spinoza1677,畠中訳(上)35頁)

原文の隔字体に従って,畠中訳にはない強調を原文に従って入れてみた.この強調が,スピノザの手によって指示されたものなのかはわからない.だが,この強調を見れば,それぞれの部門がどの点に重心を置いているのかが,多少なりとも看取できよう.

 「第二部 精神の本性および起源について」では「本性」が先で「起源」が後に書かれている.「第三部 感情の起源および本性について」では「起源」が先で「本性」が後に来ている.第二部と第三部で「本性」と「起源」の順番が逆になっているのはどういうことなのか.

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文献

ポスト・ヒューマン/サスティナブル・ウォー/シンクポル/自由は屈従——『攻殻機動隊 SAC_2045』(シーズン1)覚書

目次

 Netflixで『攻殻機動隊 SAC_2045』シーズン1(第1〜12話)を観たので、感想を書いておきたい。

www.ghostintheshell-sac2045.jp

「ポスト・ヒューマン」とシンギュラリティ

 この作品は、公安9課の敵として登場する「ポスト・ヒューマン」に表現されているように、おそらくレイ・カーツワイルのいうシンギュラリティ(技術的特異点、あるいは超知性の誕生)以後の世界(2045年にやってくると言われている)を考察したストーリーである。

f:id:sakiya1989:20200426040759j:plain(『攻殻機動隊 SAC_2045』「ep 06. DISCLOSURE / 量子化された福音」より。捕獲された「ポスト・ヒューマン」。作中では、紙飛行機を手元に戻ってくるように正確に飛ばすことで、その超人的な計算能力の高さが表現されていた。)

神山監督はインタビュー内で「シンギュラリティ」について次のように述べている。

神山:タイトルを2045年にした理由のひとつに“シンギュラリティ”があります。

企画がスタートしたときにこの言葉があちこちで取り上げられていて、「2045年ならAIが人間を追い越している」「人間が想像していなかった世界が来るんじゃないか」と言われていたんです。

攻殻機動隊』的には避けて通れないネタだったので、その辺りの時代を想定して描くことにしました。

animeanime.jp

「サスティナブル・ウォー」と資産価値

 他方で、本作が「サスティナブル・ウォー」や「世界同時デフォルト」後の世界として描いているところは、このストーリーのオチが経済問題に還元される側面を持っているように予想されるし、「ep 07. PIE IN THE SKY / はじめての銀行強盗」*1で円ドルの為替レートによる高齢者の保有資産の価値下落や仮想通貨が触れられるのもおそらくそうであろう。神山監督は「サスティナブル・ウォー」という言葉について次のように説明している。

神山:(略)…でも、経済こそが戦争の一番の原動力になっているという発想が根本にある。そこから「サスティナブル」と「ウォー」という、本来はくっつかない2つの言葉をくっつけた。つまり「持続可能な戦争」ということです。

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SDGs、即ち「持続可能な開発目標 Sustainable Development Goals 」(2015年9月、国連総会)の重要性が叫ばれるようになって久しいが、本作品内で「持続可能な sustinable 」ものは経済のためにコントロールされた戦争であり、これによって利益を得ているものがいるという設定である。

「シンクポル」とネットリンチ

 作中にのっぺらぼうの個人が登場する。これは、匿名の(anonymous)ユーザーの表現として分かりやすい。「いいね/わるいね」の数を判断基準としたSNS的な指標をそのモチーフとしているであろう「シンクポル」は、Twitterで日々繰り広げられているようなネットリンチを彷彿させる。特定のアカウントに対する匿名ユーザーたちによる罵詈雑言のオンパレード。「シンクポル」はSNSにおけるこのような社会現象を作品の表現に取り込んだものと考えられる。

 「シンクポル」は、作中にも登場するジョージ・オーウェルの『1984』に登場する《思想警察 Thought Police 》の《ニュースピーク Newspeak 》として用いられている《シンクポル thinkpol 》に由来する(以下、『攻殻機動隊 SAC_2045』の概念と混同しないように、オーウェルの概念は二重山括弧《》で表現する。)。

 《ニュースピーク》とは、『1984』の中では英語(旧語法)とは異なる表記として考案された新語法であり、旧語法から語彙を減らすことによって人間の思考能力を奪い、ビッグブラザーの権力に対して従順にすることを目的として施行されている。だから《シンクポル thinkpol 》という《ニュースピーク》は、Thoughtという旧語法の過去形を用いずに通常のthinkにして、Policeからpolへと短縮し、さらに両者を一つの略語として名詞化することによって、言葉のもつきめ細やかなニュアンスを廃棄したものであり、こうして《思想警察 Thought Police 》即ち「党やイングソックに反する思想(家)を取り締まる警察」という意味の伝統から断ち切り、徐々に人々から意味へのアクセスを妨げるのである。

 ところが、『攻殻機動隊 SAC_2045』では「シンクポル」は匿名ユーザーたちの「いいね/わるいね」によってターゲットに民主的な判決を下すプログラムの名前である。換言すれば、「シンクポル」は匿名ユーザーたちが理性的に思考するのではなくむしろ感性的に判断し判決を下すための「ヴァーチャル警察」の謂いと化している。判断基準がこのように理性ではなく感性へと後退したことによって、「シンク-ポル」というその名の意味に反して、匿名ユーザーたちは何も考えていないのである。

「自由は屈従」と対米従属

 オーウェル1984』から引用されるのは「シンクポル」だけではない。『攻殻機動隊 SAC_2045』で繰り返し取り上げられているのが、次のスローガンである。

WAR IS PEACE(戦争は平和である)

FREEDOM IS SLAVERY(自由は屈従である)

IGNORANCE IS STRENGTH.(無知は力である)

ジョージ・オーウェル1984』より) 

これはオーウェル1984』では、《真理省 Ministry of Truth 》(《ニュースピーク》では《ミニトゥルー Minitrue 》)の白い壁面に描かれた三つのスローガンである。これらのスローガンは、「戦争」と「平和」、「自由」と「屈従」、「無知」と「力」という相反する概念が等置されていることによって、矛盾しているがしかしそれによって何か深遠さを物語っているようにも映る。『1984』の作中では、党によって人々がこれらのスローガンの意味を理解できなくなるところまで《ニュースピーク》を推進することが目指されていた。『攻殻機動隊 SAC_2045』の後半(シーズン2)では、これらのスローガンははたしてどのような意義を担うのだろうか。

 ひとつだけ「自由は屈従である」というスローガンに関していえば、作中で対米従属の側面がクローズアップされている点が気になる。元米国の役人が日本の総理大臣になったという設定。米国から送り込まれたジョン・スミスが総理官邸で盗聴していたとしても日本としては何も出来ない。米国への屈従感が半端ないのだ。

おわりに

 かつてサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で取り上げられていたように、作中で重要な本が示されるという手法は今回が初めてではない。『攻殻機動隊 SAC_2045』のタイトルに年号が含まれているのは、おそらくこの作品が『1984』へのオマージュであり、これをライトモチーフとしているからであろう。

クーテイ:その本(オーウェル1984』)を読めば分かる。そこにはこれから世界中で起きることがすべて書いてあるからな。

(『攻殻機動隊 SAC_2045』「ep 12. NOSTALGIA / すべてがNになる。」*2

 人類を超えた存在である「ポスト・ヒューマン」であれ、経済のためにコントロールされた「サスティナブル・ウォー」であれ、ポスト民主主義的な「シンクポル」であれ、ますます自由の成立が人類にとって難しくなってきそうな気配さえある。「シンギュラリティ以後の時代に人類の自由はいかにして成立するのか」という観点から、本作シーズン2のリリースを楽しみにしたいと思う。

*1:はんぺん「攻殻機動隊 SAC_2045 7話『はじめての銀行強盗』の解説」によれば、元ネタは映画『ジーサンズ はじめての強盗』("Going in Style", 2017 film)だという。

*2:このタイトル「すべてがNになる。」の由来は、森博嗣『すべてがFになる』(講談社)のタイトルを捩ったものと思われる。

コロナ以後、祭礼は野蛮である

はじめに

 今回は「コロナ以後、祭礼は野蛮である」ということについて考えたい。

 もともとは「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」*1というアドルノの言葉から来ている。こちらははるかに重々しい内容を持っている。藤野寛の解釈を引用しよう。

アウシュヴィッツ以降、「文化」は、もはやいささかも無垢ではありえない。文化と野蛮の癒合を見ることなく、文化を理念として引き合いにだすことは、おめでたさと知的怠慢を証するものでしかない。そこからして、「詩を書くこと(文化)」は、もはや「野蛮(自然)からの脱却」ではなく、それ自身が「野蛮」だ、とアドルノは言い切るのである。

(藤野 2001:46)

「野蛮(自然)からの脱却」は、一つにはホッブズの社会契約論におけるように、自然状態から社会状態への転化のうちに、また一つにはヘーゲル的な意味での、労働における陶冶形成のうちにみられるかもしれないが、そうしたことは一旦置いておこう。

 「野蛮」と対照的に置かれているものが「文化」だとすれば、「詩を書くこと」のみならず、祭礼という自然に対する宗教的な統治術もまた「文化」だと言えるかもしれない。「コロナ以後、祭礼は野蛮である」と言うときの、「祭礼」は、まさに自然の猛威に対抗する文化である。

「コロナ以後」

 最近、アフターコロナの世界をいかに合理化していくかが課題となっている。「コロナウイルス」とはむろん「新型コロナウイルス(COVID-19)」のことである。

 新型コロナウイルスは、これに先行する従来のコロナウイルスとは、政治国家・市民社会・家族に対する影響力が大きく異なっている。新型コロナウイルスの影響により、リモートワークが推進され、われわれの労働環境は変わってしまった。ハンコというしきたりは、廃絶へと向かっている。新型コロナウイルスは、自然の猛威でありながら、同時にそれに処する人類にとって啓蒙的である。これぞ資本の文明化作用ならぬ、自然の猛威による文明化作用である。

「祭礼」

 日本語で「お祭り」を意味する熟語としては「祭礼」「祭儀」「祭典」などがある。これらは厳密に区別されるが、なかでも「祭礼」は御祓の意味を持つ(ただし大勢で賑やかに行われるものではないらしい)。

 よく知られるように、「ハレとケ」という民族学的な区分がある。「ハレ」は、冠婚葬祭という非日常、晴れ舞台である。「ケ」は日常である。

 「祭礼」という「ハレ」は、「ケガレ(穢れ)」という精気の衰退を祓うために行われる儀式である。

 しかしながら、「祭礼」は、人々の密集性を高め、「新型コロナウイルス」感染のリスクを高めるおそれがある。いってしまえば、ハレがケガレに転化する。したがって、コロナ以後、「ハレ」(祭礼)は、あたかも腫れ物(はれもの)に触るように行われなければならなくなる。

「野蛮」

 「野蛮」は自然状態をあらわす。「野蛮」はここでは、「コロナウイルス」のような、人間社会に対する自然の猛威を観念してもよい。

 これに対して「祭礼」は、そのような自然の猛威を押さえ込むために作られた、精神的、宗教的な統治術であった。

おわりに

 「祭礼」は文化である。この文化は、科学技術が発展した今日においても、その国民が啓蒙的であるか否かにかかわらず、人間社会を営む上で不可欠な構成要素となっている。だが、コロナ以後、祭礼を催すことは野蛮である。あるいはこう言っても良い。冠婚葬祭を行うことは野蛮である。それがどんなに荘厳な形式で行われようとも。

 ここまで書いて思い至ったのだが、参拝する際に手水の作法で手と口を清めるのも、御祓し健康を祈願することも、古い形式における公衆衛生の技術であったのかもしれない。 

文献

*1:「文化批判は、文化と野蛮の弁証法の最終段階に直面している。アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を言い渡す認識をも侵食する。」(アドルノ 1996:36)。

サイード『オリエンタリズム』覚書(4)

目次

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イードオリエンタリズム』(承前)

序説(二)(承前)

〈オリエント〉に関する三つの留保(その一)

イードは〈オリエント〉を理解するにあたって三つの留保条件を付している.

Having said that, one must go on to state a number of reasonable qualifications. In the first place, it would be wrong to conclude that the Orient was essentially an idea, or a creation with no corresponding reality. When Disraeli said in his novel Tancred that the East was a career, he meant that to be interested in the East was something bright young Westerners would find to be an all-consuming passion; he should not be interpreted as saying that the East was only a career for Westerners.

以上のように述べてきたところで,次に若干のしかるべき限定条件を示しておかねばならない.まず第一に,オリエントが本質的に符合する現実をもたない観念,あるいはつくられた想念であった,などと断定してはならない.ディズレイリは,小説『タンクレッド』のなかで,「東洋というものは生涯を賭けるべき仕事なのだ」と書いているが,このとき彼が言わんとしたのは,東洋に関心をもつということが,西洋人の若者にとってあらゆるものを呑みつくす激しい情念としてとらえられるような光り輝く何ものかである,ということであった.ディズレイリが,東洋は単に西洋人にとっての仕事場にすぎないと言ったかのごとく解釈してはならないのだ.

(Said2003: 5,訳(上)25頁)

ここでサイードはベンジャミン・ディズレイリの小説『タンクレッド』(1847年,ロンドン)に言及している.この『タンクレッド』の邦訳があるかどうか私は知らないが,サイードが言及しているのはおそらく次の箇所であろう.

『ナポレオンでさえ地中海を再び渡って後悔したとは,私は知らない.東洋というものは生涯を賭けるべき仕事なのだ.』

(Disraeli1847: 289)

ナポレオンは地中海のエルバ島に幽閉されたが,そこから脱出した.東洋へ行くことは,そのような身を危険にさらしてでも試みるだけの価値がある,ということだろうか.

There were—and are—cultures and nations whose location is in the East, and their lives, histories, and customs have a brute reality obviously greater than anything that could be said about them in the West. About that fact this study of Orientalism has very little to contribute, except to acknowledge it tacitly. But the phenomenon of Orientalism as I study it here deals principally, not with a correspondence between Orientalism and Orient, but with the internal consistency of Orientalism and its ideas about the Orient (the East as career) despite or beyond any correspondence, or lack thereof, with a “real” Orient.

昔も今も,東洋にはあまたの文化・民族が存在しているのであり,彼らの生活や歴史や慣習は,明らかに西洋で語られうる以上に,偉大で酷薄な現実を有しているのである.だがこうした事実については,私のオリエンタリズム研究はほとんど寄与するところがない.暗にその事実を認めるだけである.私が研究対象とするオリエンタリズムという事象に主として関係しているのは,オリエンタリズムとオリエントとの符合・対応なのではない.「現実の」オリエントと何らかの符合が存在しているか,いないかなどということに関わりなく,つまりそれらを超越したところで,オリエンタリズムに内在的な論理整合性およびオリエント(生涯の仕事としての東洋)に関する諸観念が問題とされるのだ.

(Said2003: 5,訳(上)25〜26頁)

イードは,事実に基づいて〈オリエント〉の実証研究をしたのではなく,〈オリエント〉の観念を取り扱っているという.だからテクストが主要な研究対象となる.

 ところで,サイードが上記のような留保条件をつける必要があったのは一体何故であろうか.サイードの『オリエンタリズム』は,そのタイトルを一見すると,それを読めば本当のリアルな〈オリエント〉が分かるといった類のものではないかと予想されてしまう.しかしながら,サイードの研究対象は,「「現実の」オリエントと何らかの符合が存在しているか,いないかなどということに関わり」がない.したがって,サイードは,自身のオリエンタリズム研究を〈オリエント〉のリアルと結びつけるような予断を払拭する必要があったのである.

〈オリエント〉についての諸観念の星座的布置
My point is that Disraeli’s statement about the East refers mainly to that created consistency, that regular constellation of ideas as the pre-eminent thing about the Orient, and not to its mere being, as Wallace Stevens’s phrase has it.

要するに,ディズレイリが東洋について述べていることが,もっぱらあのつくられた整合性,つまりオリエントについてきらめく星座のごとき権威をもつあの型にはまった観念群に言及したものであった.それはウォーレス・スティーヴンズの詩句にいう,あるがままの存在に言及したものではなかったのである.

(Said2003: 5,訳(上)26頁)

邦訳ではconstellationが「きらめく星座のごとき」と訳されている."regular constellation of ideas as the pre-eminent thing about the Orient"を直訳すれば,「〈オリエント〉について卓越したものとしての諸観念のあの規則的な〔星座のような〕布置状況」となる.

 知られるように「コンステラツィオン Konstellation 」はヴァルター・ベンヤミンの用語として有名であり.「星座的布置」などと訳される.星座は,人間が散らばった星の並びを見て,そこに何らかの形を読み取ったものである.サイードが言及する〈オリエント〉の観念も,〈オリエント〉に関する様々な言説を星座のように見たて,そこから浮かび上がってくる〈オリエント〉像を明らかにする試みだと言えるかもしれない.

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文献