まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

スピノザ『エチカ』覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

第一部 神について

 スピノザ『エチカ』の第一部は「神について」である。どうして「神について」の論証から始めねばならなかったのだろうか。

定義

 それはさておき、まずは第一部「神について」の「定義」からみていこう。

 定義

一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。

二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。

三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。

四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。

五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。

六 とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。

(…)

七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。

八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。

(Spinoza1677: 1-2, 訳37〜38頁, 強調は畠中訳による。)

第一部に「定義」は八つ出てくる。他の各部門を見ても「定義」は八つ以上は出て来ない。おそらくスピノザは表示すべき「定義」の数を必要最小限にするべく、何度も何度も思考を研ぎ澄ましたはずである。

隔字体のない原文

 今、上の「定義」の引用をし終わったところで、私は大変驚いてしまった。上の訳文の引用の通り、畠中訳『エチカ』には強調がある。しかしながら、1677年出版の『遺稿集』に収録された『エチカ』の原文には隔字体による強調がないのである。私の記憶が定かならば、過去に『エチカ』を大学院のラテン語原典購読の授業で読んだ時には確かにあったはずである。実際、以下のサイトでは隔字体で表記されている。

users.telenet.be

 テクストを解釈する際には原文の隔字体やイタリックによる強調が鍵となる場合が大いにある。私の経験上、ヘーゲルのテクストがまさしくそうである。だが、スピノザ『エチカ』の上の「定義」にもともと強調がなかったとしたらどのように解釈は変わりうるだろうか。

「定義」における「幾何学的秩序」

 定義一〜五は基礎概念とでも呼ぶべきものであり、これによってはじめて定義六で「神」の理解が示されている。

 「定義」が登場する順番、つまりその「幾何学的秩序」はいかにして考慮されているのだろうか。この第一部は「神について」がテーマである。もし定義六がこの部門の最初の定義として出されていたらどうだったであろうか。

(六)とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性(⇒定義五)から成っている実体(⇒定義三)、と解する。

┗(五)様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの(⇒定義二)、と解する。

┗(四)属性とは、知性が実体(⇒定義三)についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。

┗(三)実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの(⇒定義一)、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。

┗(二)同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。

┗(一)自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。

「定義」の順序を逆にするだけで、定義一〜定義五は、神についての定義六を説明するための要素と化する。

 とはいえスピノザはすべての語彙を定義しているわけではない。「本質」「本性」「存在」などはここでは自明の概念として用いられているように思われる。しかし我々にとって『エチカ』を理解する際の躓きの石となりうるのは、こうしてスピノザによって自明なものとして用いられている概念によってであるかと思われる。

知解可能なものとしての「神」

 スピノザがこのように「神」を思考された実体として知解可能なものとして言い表したことによって、通常観念されてきた「神」とどれほど異なる概念が示されたことになるのだろうか。スピノザが宗教的に不遜たる所以は、従来観念されてきた人間にとっては知解不可能であるはずの「神」を、人間にとって知解可能なものとして記述してしまったところにあるのではなかろうか。

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