目次
スピノザ『エチカ』(承前)
第一部 神について
定義
定義
一 自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する.
二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる.例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる.同様にある思想は他の思想によって限定される.これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない.
三 実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの,言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する.
四 属性とは,知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの,と解する.
五 様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの,と解する.
六 神とは,絶対に無限なる実有,言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体,と解する.
(…中略…)
七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる.これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である,あるいはむしろ強制されると言われる.
八 永遠性とは,存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り,存在そのもののことと解する.
(Spinoza1677: 1-2,畠中訳(上)37〜38頁)
第一部には八個の「定義」が登場する.他の各部門を見ても「定義」は八個以上は出て来ない.スピノザは「定義」の数を必要最小限にするべく,何度も何度も思考を研ぎ澄ましたはずである.
隔字体のない原文
上の「定義」の引用をし終わったところで私は大変驚いてしまった.畠中訳『エチカ』には傍点による強調がある.しかしながら,『スピノザ遺稿集』(Opera posthuma, 1677)に収録された『エチカ』初版には,隔字体による強調がないのである.私の記憶では過去に『エチカ』を大学院のラテン語原典購読の授業で読んだ時には,確かに強調があったはずである.隔字体やイタリックによる強調は,テクスト解釈の鍵となり得る(ヘーゲルのテクストがまさにそうだ).その限りでスピノザ『エチカ』の原文にもともと強調があったのか否かは重要な事柄であると言える.
「定義」における「幾何学的秩序」
定義一から定義五は基本的な定義とでも呼ぶべきものであり,これによってはじめて定義六で「神」の理解が示されている.
定義が登場する順番,その「幾何学的秩序」はいかにして考慮されているのだろうか.もし定義六が第一部の最初の定義として逆に展開されていたらどうだったであろうか.
「神とは,絶対に無限なる実有,言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性(→定義五)から成っている実体(→定義三),と解する.」(定義六)
┗「様態とは,実体の変状,すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの(→定義二),と解する.」(定義五)
┗「属性とは,知性が実体(→定義三)についてその本質を構成していると知覚するもの,と解する.」(定義四)
┗「実体とは,それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの(→定義一),言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの,と解する.」(定義三)
┗「同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であると言われる.例えばある物体は,我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに,有限であると言われる.同様にある思想は他の思想によって限定される.これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない.」(定義二)
┗「自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する.」(定義一)
定義の順序を逆にするだけで,定義一から定義五は,定義六を説明するための要素と化する.
スピノザは哲学のテクニカルタームを定義していない.「本質」「本性」「存在」などは,ここでは自明のものとして用いられている.しかしこれらの概念は,決して自明なものではあり得ない.