まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

スピノザ『エチカ』覚書(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

スピノザ『エチカ』(承前)

第一部 神について(承前)

 「定義」の内容についてもう少し詳しく検討を加えてみたい.

「私」という主語,抹消された主体

 「定義」の中でも真っ先に掲げられているのが「自己原因」である*1

一 自己原因とは,その本質が存在を含むもの,あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの,と解する.

(Spinoza1677: 1,畠中訳(上)37頁)

intelligoというラテン語は,intelligō(理解する)という動詞の直接法・能動態・現在・一人称・単数である.「自己原因〔という言葉〕によって私が理解する intelligo のは,以下のことがら id である」という意味である.

 ラテン語原文には英語のIやドイツ語のIchのように「私」という主語が文字通りには表記されていないが,ラテン語では主語は動詞の人称変化によって明確に表記されている.したがってここでは主語の不在を示しているのではない.しかしながら,これが「解する」という日本語の動詞に翻訳されるやいなや,それだけではラテン語の動詞に内在する変化形をすべて表現できない.つまり,翻訳によって主語の欠落が生じてしまうことになる.だが,これはあくまで日本語という言語に固有の問題であって,『エチカ』のテクストそのものに内在する問題ではない.

 この箇所は,工藤・斉藤訳『エティカ』では次のように訳されている.

一 自己原因とは,その本質が存在をふくむもの,いいかえれば,その本性が存在するとしか考えられないもののことである.

(Spinoza1677: 1,工藤・斉藤訳)

ここでは主語は「自己原因」であり,もはやそれを理解する「私=筆者」という主体=主語どころではない.「理解する intelligo 」ということさえもが,どこかに消えてしまった.これは一体どういうことであろうか.

 上野修(1951-)の解釈においては,「私=筆者」という主体=主語は,その存在そのものが抹消されてしまっている.

 だれもが知るように*2,『エチカ』の言説の際立った特徴はその非人称性にある*3.じっさい論証という形をとる『エチカ』の言説は諸々の定義,公理,先行する諸定理から自らを導き出していくわけで,まるでひとりでに展開するように見える.「論証がそれ自身に語りかけているのだ」とさえ人は言いたくなるだろう*4.だが正確にいって,論証の中でいったい誰が語っているのだろうか*5.こう言ってよければ,論証しつつある論証主体とは何者なのか.著者スピノザ?いやそうは言えない.われわれはユークリッド幾何学の論証を辿るさい,ユークリッドその人の再生された声を聞き取っているわけではあるまい.それと同様,われわれはスピノザの声を聞き取っているわけではない.たしかにそれはスピノザという名の人物によって書かれたテクストかもしれないが,著者自身がそう望んだように,論証の真理は著者のいかなる伝記的要素にも左右されてはならないのである*6.それゆえ,『エチカ』の中で語っている論証の主体は誰でもありはしない.いやむしろ,それは何か人称的実質を欠いた,名もなき主体のようなものなのだ.これが『エチカ』の根源的な非人称性である.

…(中略)…

 ひるがえって『エチカ』を見れば,その幾何学的秩序に欠けているのは,まさにこの一人称の「語る〈わたし〉」にほかならない.このことは,著者スピノザがもっぱら間欠的に,論証の糸の外部に位置する備考という形でしか一人称で介入しないという事実からも明白である.『エチカ』の言説は「わたし」といって語るどころか,いったい誰がその主体であるのか言明されないまま諸定理が述べられてゆく.

(上野1993:83-84)

ここまで上野が長々と一人称の主体の欠如を語っているのを見ると,上野がラテン語原文でスピノザ『エチカ』を読解していないのではないかという疑いを禁じ得ない.上野が云々する『エチカ』の非人称性は事実ではなく,繰り返すが冒頭1行目の定義一からすでに一人称の「私」が登場するのである.

 こうしてみると,翻訳書で『エチカ』を理解するのは心許ない気がしてくる.二次文献ではあるが,最近出版されたもので最もユニークによく練られた訳文は,秋保亘(1985-)の手による以下の訳文である.

「自己原因ということによって私は,その本質が実在を含むもの(id cujus essentia involvit existentiam),あるいはその本性が実在すると〔して概念する〕以外には概念されえないもの(id cujus natura non potest concipi, nisi existens)と知解する」[E1Def1]

(秋保2019:150)

ここで秋保は主語である「私」を明確に訳出するとともに,intelligoが「知性」と関わる動詞であることを示すべく「知解する」と訳しており,またconcipiも「概念」と関わる動詞として訳出している.こうした点はラテン語原文で読む読者にはすでに周知のことがらであったが,印刷物ではどういうわけかなかなかお目にかかれない訳出なのである.

 もっとも「私=筆者」という主語の復権を云々したからといって『エチカ』全体の解釈が大きく刷新されることにるのかどうか,私にはまだよく分からない.しかし「私=筆者」の視点をあらためて明確にすることは,上記の如くに誤読されてきた『エチカ』解釈のためのひとつの試みとしては面白いのではなかろうか.

「自己原因」の解釈と「神の存在証明」

 その「自己原因」を, 我々つまり読者が理解するためには,「あるいは sive 」で並置された二つの事柄でもって総合的に理解しなければならないであろう.「その本質が存在を含むもの」と「その本性が存在するとしか考えられえないもの」の両方に共通するのは「存在」である.

 あらゆる存在者に先行してアプリオリに絶対的に存在するもの,他のものを自己の存在理由としないもののことを,スピノザは「自己原因」と呼んでいるのではないだろうか.

 いわゆる「神の存在証明」として有名であるが,こうした考え方はアリストテレスの「第一原因」に似ている.アリストテレスは「第一原因こそが神だ」と述べた.しかし,スピノザは「自己原因が神だ」とは述べていない.スピノザがそういう直截的な言い方をしていないのは何故であろうか.

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:スピノザの「自己原因」とデカルトのそれとの比較については中野2003をみよ.

*2:実は誰もが知り得るのだが。

*3:『エチカ』の言説の特徴が非人称性にあるように見えるのは,ラテン語を読めない人がいるからである.

*4:全然.むしろスピノザが頑張って論証のようなものを展開している様子が窺える.

*5:スピノザだろう.

*6:「論証の真理が著者のいかなる伝記的要素にも左右されてはならない」というのも結局一つの立場にすぎない.