目次
ルソー『社会契約論』(承前)
第一編第一章 第一編の主題
二つの喩え,二つの問い
第一章冒頭は,ルソーらしい美文から始まっている.
人間は自由なものとして生まれた,しかもいたるところで鎖につながれている.自分が他人の主人であると思っているようなものも,実はその人々以上にドレイなのだ.どうしてこの変化が生じたのか? わたしは知らない.何がそれを正当なものとしうるか? わたしはこの問題は解きうると信じる.
(Rousseau1762: 3,訳15頁,強調引用者)
自由と鎖による束縛,主人と奴隷.これらの明瞭な表現はおそらく比喩ではない.同時にルソーは問題提起している.なぜ人間は自由から束縛の状態へと変化し,主人が奴隷と化するのかと.このような変化は弁証法的である.
「何がそれを正当なものとしうるか?」という問いに対してルソーは「わたしはこの問題は解きうると信じる」と述べている.どうして人民が主人(主権者)から奴隷(臣民)へと変化したことはわからないが,人民が奴隷(臣民)であることを正当化する理論については説明することができる,とルソーが述べているというように解釈できるだろうか.
「取り決め」に基づく「社会秩序」とその「権利」
次にルソーは「社会秩序」について言及する.
もし,わたしが力しか,またそこから出てくる結果しか,考えに入れないとすれば,わたしは次のようにいうだろう——ある人民が服従を強いられ,また服従している間は,それもよろしい.人民がクビキをふりほどくことができ,またそれをふりほどくことが早ければ早いほど,なおよろしい.なぜなら,そのとき人民は,〔支配者が〕人民の自由をうばったその同じ権利によって,自分の自由を回復するのであって,人民は自由をとり戻す資格をあたえられるか,それとも人民から自由をうばう資格はもともとなかったということになるか,どちらかだから.しかし,社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である.しかしながら,この権利は自然から由来するものではない.それはだから約束にもとづくものである.これらの約束がどんなものであるかを知ることが,問題なのだ.それを論ずる前に,わたしは今のべたことを,はっきりさせておかねばならない.
(Rousseau1762: 3-4,訳15頁,強調引用者)
ここでルソーは「力 force」を持ち出す.«force»というのは,物理的な「暴力」や「強制力」,抽象的には「権力」のことである.こうした「力」によって服従関係が生じる場合は,「同じ法権利によって par le même droit」つまり同じ「力 force」によって自由な状態をとり戻すことになる.こうした理論は〈自然権〉という発想に繋がる*1.
だが,このパラグラフからルソーはいわゆる〈自然権〉を「社会契約」論の理論的基礎としては採用しなかったことがわかる.というのも,ルソーはまさに「約束 conventions」を「社会秩序」の基本に据えているからである.ここで«conventions»は「約束」と訳されているが,要するに人と人との〈取り決め〉の謂であり,「協約」や「慣習」などとも訳される.あらゆる「権利 droit」の基礎をなす「社会秩序」(あるいは「神聖な権利」)はこの「取り決め conventions」に基づくのであって,まったくもって「自然 nature」から生じたのではない,とルソーはいう.この場合の「神聖な権利 droit sacré」の〈神聖さ〉とは,〈自然権〉の「力 force」によっては不可侵な人々の「一般意志」の神々しさを表現したものであろう.
ちなみに鳴子博子はこの個所をルソーによって革命肯定論を展開したものと解釈している.
ルソーをどこまでも秩序の破壊を拒否する現状肯定論者,あるいは平和的改良主義者と断定するのは早計である.このセンテンスの直後に「人民がクビキを振りほどくことができ,またそれを振りほどくことが早ければ早いほど,なおよろしい」と続けているのだから.支配者の力を上回る力を,人民が結集することが可能になったとき,力にしか根拠を持たない不当な権力の打倒は,力強く肯定される.この行為の時期が早ければ早いほどよく,また,先の人民が支配者の服従下にある状態より,さらによしとされているのである.ルソーは明らかに,大胆にも『社会契約論』冒頭において,革命肯定論を展開しているのである.
(鳴子2001:178,強調引用者)
だが注意しなければならないのは,先のパラグラフの前半でルソーが「もし,わたしが力しか,またそこから出てくる結果しか,考えに入れないとすれば」という仮定を設けている点である.ルソーの主張の力点はこのパラグラフの後半の「しかし,社会秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である」という部分以降にある.つまりルソーの理論的基礎として「力しか,またそこから出てくる結果しか,考えに入れない」ということはないのであって,前半部分はややアイロニックな表現として捉えるべきではないだろうか.つまり〈自然権〉の「力」を出発点にして推論を行えば,こういう結果が導き出されますよ,という理屈を述べているに過ぎないのであって,ここでルソーが革命肯定論をルソー自身の主張として述べていると解釈するのは牽強付会ではないだろうか.
文献
- Rousseau, 1762, Du Contract Social, Amsterdam. (Koninklijke Bibliotheek, 2018)
- ルソー 1954『社会契約論』桑原武夫・前川貞次郎訳,岩波書店.
- 鳴子博子 2001『ルソーにおける正義と歴史——ユートピアなき永久民主主義革命論——』中央大学出版部.
*1:ホッブズ の「自然権」については拙稿「ホッブズの権利論——自然権と自由」を参照されたい.