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承前
この記事は以下の記事の続きです。
「権利」はオランダ語の regt や英語の right の翻訳語として用いられるようになりました。しかしながら、 regt や right という言葉それ自体が、ラテン語の ius の翻訳語だと考えるとどうでしょうか。もしそうだとすれば、「権利」は ius の重訳から生まれた、と言えなくもなさそうです。
ホッブズの「自然権」
例えば、政治哲学者ホッブズは、「自然権 Right, Ius 」と「自然法 Law, Lex 」の区別に留意しつつ*2、「自然権」について次のように述べています。
〈著作者たち〉がふつうに自然権 Jus Naturale とよぶ自然の権利 RIGHT OF NATURE とは、各人が、かれ自身の〈自然〉すなわちかれ自身の〈生命〉を維持するために、かれ自身の意志するとおりに、かれ自身の力を使用することについて、各人がもっている〈自由〉であり、したがって、かれ自身の〈判断力〉と〈理性〉において、かれがそれに対する最適な手段であると考えるであろうような、どんなことでもおこなう自由である。
(Hobbes 1651=1668:64=66、訳216頁)
ホッブズの言葉を敷衍すると、〈自然権〉が「自然の」と呼ばれる理由は、この権利が「自己の生命」というまさに「自然 Nature 」にかかわるものだからです。ホッブズにおいて〈自然権〉とは、自分の力(power, potentia)を行使する「自由」ですが、ここで「力」は「自己の生命を維持する」という目的に適合する限りで認められており、そのため〈自然権〉における「自由」とは極めて合目的的な、目的合理的な「自由」です*3。
ここではホッブズ解釈にこれ以上立ち入りませんが、上述の引用箇所から、ホッブズが英語の right をラテン語の jus の翻訳語として用いていることがわかると思います。したがって、「権利」は right の翻訳語であると同時に jus の重訳だと言えるのです。
「自然権」と「自由」
そしてもう1つ指摘しておくと、「権利とは正しいことである」という、まるで辞書からその内容を引っ張ってきたような説明が専門家の中にもしばしば散見されるのですが、そのような説明は同語反復(トートロジー)に過ぎません。そもそも「権利 Right 」とは「正しいこと(ラテン語の iustum 、これはもっと遡るならばアリストテレス『ニコマコス倫理学』のディカイオシュネーに該当する)」なのですから。「権利 Right 」すなわち「正しいこと ius 」とは一体何なのかを説明しないことには、「権利」を説明したことにはなりません。
「権利とは正しいことだ」という陳腐な説明が通用するのは日本語だから成り立つように見えるのであって、「レヒトはレヒトだ」というトートロジーは実際にはナンセンスである。
— 荒川幸也 Sakiya Arakawa (@hegelschen) 2017年3月9日
ちなみにホッブズにおいて「自然権」という「権利 Right, Ius 」が、単に正しいとか正しくないという観点*4ではなく、むしろ「自由 Liberty, Libertas 」の観点から論じられている点には注意すべきかと思います。
実は私は以前、ヘーゲルの権利論の読解をまさに「権利」と「自由」という観点から注意を促した*5のですが、ヘーゲルだけでなく既にホッブズにおいても「権利」と「自由」との結びつきは非常に強いと考えられるのです。ヘーゲルの『法の哲学』の副題に「自然権 Naturrecht 」と書かれている理由も、まさに「権利」と「自由」の観点から説明できるような気がします。
ホッブズにおいて「自然権」は「力 power, potentia 」を行使する自由と言われているわけですから、「権利」と「力」が全く関係ないとは言い切れなさそうです。が、 Ius と Right の同一性という観点を持ちつつ、 Ius としての「権利」についてもう少し時代を遡ってみる必要があります。
文献
- Hobbes, Thomas, 1651, LEVIATHAN, OR The Matter, Forme, & Power OF A COMMON-WEALTH ECCLESIASTICALL AND CIVILL, London.
- Hobbes, Thomas, 1668, LEVIATHAN, SIVE De Materia, Forma, & Potestate CIVITATIS ECCLESIASTICÆ ET CIVILIS.
- ホッブズ 1992『リヴァイアサン(一)』水田洋訳, 岩波書店(岩波文庫).
- 荒川幸也 2017「ヘーゲルの権利論」(田上孝一編著『権利の哲学入門』社会評論社).
- 小林弘 2007「ホッブズの哲学における権利と法」『英米文化』37.
*1:このテーマについてはすでに素晴らしい先行研究が存在する。小林によれば「ホッブズは, 「権利が法より先に存在する」という学説を自然法の分野に適用して「自然権の自然法に対する優越」という見解を導いた。その見解は近代政治思想史上最初に論じられ, しかも後世に影響を与えた見解である。」(小林 [2007]、57〜58頁)。
*2:「この主題についてかたる人びとは、権利と法 Jus and Lex, Right and Law を混同するのが常であるが、しかし、両者は区別されなければならない。」(Hobbes 1651=1668:64=66、訳216〜217頁)。
*3:同時に我々はホッブズによる後続の「自由」についての説明を考慮に入れる必要がある。「自由とは、このことばの固有の意味によれば、外的障碍が存在しないことだと理解される。この障碍は、しばしば、人間がかれのしたいことをする力の、一部をとりさるかもしれないが、かれが自分にのこされた力を、かれの判断力と理性がかれに指示するであろうように、使用するのをさまたげることはできない。」(Hobbes 1651=1668:64=66、訳216頁)。 ホッブズの論理に従えば、「外的障碍」が「生命の維持」を脅かすようなものであるならば、そのような障碍は取り除かれなければならないということになるだろう。
*4:正しいとか正しくないという観点は、ホッブズのいわゆる「自然状態」ではそもそも存在しない。「正邪 Right and Wrong と正不正 Justice and Injustice の観念は、そこには存在の余地をもたない。共通の権力がないところには、法はなく、法がないところには、不正はない。」(Hobbes 1651=1668:63=65、訳213頁)。
*5:詳しくは荒川 [2017]を参照せよ。