まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

県外引っ越し

 4月以降の転勤先があまりにも遠くて通えないので、引っ越しをすることにした。県外へ引っ越しするのは初めてである。異動の辞令が出たのが3月3週目過ぎた頃だったので、とにかく時間がない。先週、たまたま内覧しに行った1件目の物件があまりにも優良物件だったので、内覧日の当日にそのまま営業所で契約してきた。あらかじめ源泉徴収票や住民票の写しなどの必要書類を用意して行った。審査に日数がかかると聞いていたのに、営業所に行って契約したら、即日であっさりと審査完了してしまった。

 今日は、引っ越し先で鍵の受け取りを済ませてきた。引っ越し先の物件はリフォーム済みで、床も壁紙も新品同様に綺麗である。もちろん家の中に家具などはまだ何もない。電気・ガス・水道もまだ通っていなかった。水道局に電話したら、二、三十分後には水が使えるようになった。ガスの開通には立ち会いが必要なので、来月の頭に予約した。東京電力には電話が繋がらない。余裕がある時にWeb TEPCOから電気契約を申し込むことにする。

 冷蔵庫や洗濯機を置くために採寸しておく必要がある。近くのウエルシアでメジャーとパンを買ってきた。その帰り際に、周辺を散歩してみた。少し先に水路と緑道があり、田んぼが一面に広がっていた。団地だが閑静な場所で、読書に集中できそうな環境である。しばらくはこの家に住むことになろう。

 家賃支払いを口座振替に設定するために銀行に行ったが、持ち歩いている印鑑印鑑が銀行届出印ではなかった為、今日は手続きを進めることができなかった。

 転出届や転入届といった手続きは、引っ越しから14日以内に設定されている。転出届は、引越しの14日前から当日までに転出元の市役所に届け出なければならない。今日鍵を受け取ったので、まだ家具もなにも置いていないけれども、一応今日引っ越したことになる。急いで地元の市役所に戻り、転出届を出してきた。

 これだけやれば休日は終わってしまう。明日からまた仕事なので、今日はこの辺で切り上げる。

ヘーゲル『法の哲学』覚書:「世界史」篇(2)

目次

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

世界史(承前)

四つの世界史的帝国

 第354節

 これら四つの原理に従って,世界史的帝国には次の四つが存在する.(1)オリエント,(2)ギリシア,(3)ローマ,(4)ゲルマンである.

(Hegel1820: 350,上妻ほか訳(下)368頁,訳は改めた)

ここでヘーゲルの「世界史的帝国 welthistorischen Reiche」という概念に着目してみたい.

 ヘーゲルは先に„Weltgeschichte“(第340節)という語を用いていたが,ここ第350節では„welthistorischen“と述べている.ドイツ語の„historisch“と„geschichtlich“はどちらも「歴史的」という意味の類義語であり,相互に置換可能だということであろう.

 „Reich“は,上妻ほか訳では「領野」「世界」と訳され,藤野渉・赤沢正敏訳(中央公論新社)では「治世」と訳されている.„Reich“は今ではドイツ「第三帝国 Drittes Reich」(ナチスドイツ)の印象が強いので,ヘーゲルのテクストにおいては,支配領域の拡大路線を取る「帝国主義」の観念をもたらす「帝国 Reich」という訳語はあえて採用しない,というのが現今の基本方針のようである.

 しかしながら,ここではヘーゲルの„Reich“を「帝国」と訳した上で,ヘーゲルの「世界史的帝国」なる概念がいかなるものであるのかを改めて確認したい.それでも「帝国」という訳語が不適当だという結論に至るならば,それも良しとしよう.

 さて,ヘーゲルによれば,「世界史的帝国」にはオリエント帝国・ギリシア帝国・ローマ帝国・ゲルマン帝国の四つがあるとされ,そしてこれらの区分は前節(第353節)で述べられた「四つの原理に従って Nach diesen vier Prinicipien」いるとされる.ヘーゲルがこのように「世界史的帝国」を四つの原理に従って区分したということが意味することは,「世界史」とは西暦のような年代記に従って考察されるべきものではなく,原理に従って考察されるべきであるとヘーゲルが考えていたということである.

 「世界史」における四つの原理がそれぞれ異なっているということは,「世界史」が単なる反復ではないことをも意味している.もちろん異なる時代,異なる地域であっても,過去の原理が反復され,互いに原理的に重なり合う部分は存在するであろう.しかしながら,異なる時代の異なる地域が互いに原理的に重複するということは,後続して出てきたところでは世界史的意義をもはや持たないであろうし,異なる地域に同一の原理が見いだされる場合には,その原理がより先行して出現した場所に〈帝国〉の名が冠せられることになろう.

 それにしても,ヘーゲルが「世界史」をたった四つの原理に還元したことに驚く.「世界史」の原理とはそんなに少ないものなのだろうか.「世界史」はどのような原理に従って区分されうるのだろうか.その内容について次回以降見ていきたい.

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文献

読書前ノート(7)梅田百合香『ホッブズ リヴァイアサン シリーズ世界の思想』

梅田百合香『ホッブズ リヴァイアサン シリーズ世界の思想』(KADOKAWA、2022年)

 「シリーズ世界の思想」という企画を立ち上げたのは一体どのような人物なのか、ということが気になっている。というのも、各思想家を担当する執筆者の人選が抜群に優れているからである。このシリーズはすでに次のものが刊行されている。佐々木隆治『マルクス 資本論』(2018年)岸見一郎『プラトン ソクラテスの弁明』(2018年)古田徹也『ヴィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(2019年)御子柴義之『カント 純粋理性批判』(2020年)永見文雄『ルソー エミール』(2021年)。さらに、KADOKAWAホームページに掲載されている未刊行のラインナップによると、今後このシリーズでは、津崎良典『デカルト 方法序説』、大河内泰樹『ヘーゲル 精神現象学』、今福龍太『レヴィ゠ストロース 悲しき熱帯』が予定されている。いずれの執筆者も実力派揃いであり、いずれもまさに「古典」と呼ばれるにふさわしい著作が扱われている。

 ホッブズリヴァイアサン』は、これまでに何度も翻訳が試みられてきたが、基本的には市民社会すなわち国家の成立を考察するという関心から、前半にあたる第一部「人間について」と第二部「国家について」までが翻訳されることが多く、後半の第三部「キリスト教の国家について」と第四部「闇の王国について」までを含めた完訳は岩波文庫の水田洋訳のみである*1

 梅田の解説は、『リヴァイアサン』の第一部・第二部のみならず、第三部・第四部まで等しく扱われている。梅田は『ホッブズ 政治と宗教 『リヴァイアサン』再考』(名古屋大学出版会、2005年)において、宗教論の観点から『リヴァイアサン』を考察したが、その成果が後半の第三部・第四部の解説に活かされているだろう。

 ところで、ホッブズリヴァイアサン』とロック『統治二論』は好対照をなしていることに気づく。ホッブズリヴァイアサン』は、前半部がおよそ市民社会論を構成しており、後半部にそれに関する限りで宗教的観念の論駁がなされている。これに対して、ロック『統治二論』は、前半部はフィルマー批判という形で、宗教的観念の論駁を行い、それを踏まえて後半部で市民社会論に移行する。いずれの著作も、宗教的観念の論駁に関する箇所は、翻訳から脱落してきたのである。しかし、今読み直しが求められているのは、近代国家に関する部分的解釈ではなく、宗教的観念の論駁の箇所をも含めた総体的で体系的な解釈なのである。

*1:その後、加藤節訳で新訳が出た。拙稿「読書前ノート(15)トマス・ホッブズ『リヴァイアサン』 」を読まれたい。

デカルトにとっての〈数学〉:『方法序説』を中心に

目次

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デカルトにとっての〈数学〉:『方法序説』を中心に

 ここでは先ず、デカルトが〈数学〉についてどのように考えていたのかという点について、彼の『方法序説』を中心に見ていきたいと思う。

 デカルト方法序説』第一部では、デカルト自身が人文学を放棄して、「世界という大きな書物のうちに見つかるかもしれない学問だけを探究しようと決心」した経緯が語られている。その中でデカルトは〈数学〉について次のように語っている。

 わたしは何よりも数学が好きだった。論拠の確実性と明証性のゆえである。しかしまだ、その本当の用途に気づいていなかった。数学が機械技術にしか役立っていないことを考え、数学の基礎はあれほど揺るぎなく堅固なのに、もっと高い学問が何もその上に築かれなかったのを意外に思った。これと反対に、習俗を論じた古代異教徒たちの書物は、いとも壮麗で豪華ではあるが、砂や泥の上に築かれたにすぎない楼閣のようなものであった。かれらは美徳をひどく高く持ち上げて、この世の何よりも尊重すべきものと見せかける。けれども美徳をどう認識するかは十分に教えないし、かれらが美徳という美しい名で呼ぶものが、無感動・傲慢・絶望・親族殺しにすぎないことが多い。

(Descartes1902: 7-8,谷川訳15頁)

前後のパラグラフを考慮するならば、以前のパラグラフでは「雄弁術」と「詩」が言及され、以後のパラグラフでは「神学」と「哲学」が言及されている。つまりデカルトがこれまでに取り組んだ学問が順に言及されているわけであるが、どういうわけかこのパラグラフでは「数学」と「習俗を論じた古代異教徒たち〔ストア派といわれている〕の書物」が対比されている。両者の違いは、端的に言うと、その基礎が「揺るぎなく堅固」なのか、それとも砂上の楼閣のように崩れやすいものなのかという点にある。後者はそれだけで欠点であるが、前者もまた堅固な基礎の上に何も築かれていないという点で不足がある。

 ところでデカルトは、数学の「本当の用途」だとか、堅固な基礎の上に築かれるべき「もっと高い学問」として、具体的には何を想定していたのであろうか。数学が役立てられるべき機械技術以外の分野については、小林道夫(1945-2015)によれば、これは自然学だと解釈されている。

これは、イエズス会の教育では、数学はもっぱら築城術や土地測量などの機械的技術に結び付けられて、その後、彼が展開するような数学の自然学への適用(数学的自然学の形成)が考えられていなかったことを意味する。実際に、それまでは、一般に、数学は、数論と幾何学という純粋数学と機械学や音階学や天文学などの応用数学とに明確に区分されていて、純粋数学によって自然学を構成するということは考えられず、その構想をまさにデカルトガリレオとともに(後に述べるようにアルキメデスの科学の吸収という動向を受けて)実現することになるのである。

(小林2007:160-161)

デカルトの時代まで数学が自然学に応用されなかったのは、アリストテレス主義による類種関係がその適用を拒んできたからに他ならない。アルキメデスの科学的方法が取り入られれるようになってようやくその流れが近代に入ってから変わってきたといえる。だが、異端審問にかけられたジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられ、ガリレオ・ガリレイが自身の自然学を否認させれるような同時代にあっては、デカルトもまた『世界論』を生前に刊行することはできず、彼の自然学は一部しか公表されなかったのである。

(つづく)

文献

〈哲学〉と〈数学〉の関係を考える

目次

はじめに

 〈数学〉の発展がその時代の〈哲学〉に与えた影響は決して少なくない。かの偉大な哲学者プラトンは、算術・幾何学天文学などの科目を事前に修めることを、自身の創設したアカデメイアに入門して哲学するための条件として課した。〈哲学〉は、その黎明期からつねにすでに、〈数学〉を自らの前提としていたのである。デカルトライプニッツの名を挙げるまでもなく、〈哲学〉は〈数学〉の発展とともに歩んできた。本稿では、〈哲学〉と〈数学〉の関係を歴史的かつ内在的に明らかにしていきたいと思う。

思考実験その一:〈哲学〉と〈数学〉の四則演算

 〈数学〉は数を取り扱い、その計算は四則演算(+/−/×/÷)を基礎とする。では、〈哲学〉と〈数学〉の関係は、四則演算によって示すことができるだろうか。この点について、以下に思考実験を行ってみよう。

思考実験その1

(1)哲学+数学=α

(2)哲学−数学=β

(3)哲学×数学=γ

(4)哲学÷数学=δ

上記の計算式はあくまで思考実験であり、これらの計算式が成立するのかどうか明らかではない。

 第一に、〈哲学〉および〈数学〉の内実が明らかにされない限り、上の計算式を解くことはできない。しかし、〈哲学〉とは何か、〈数学〉とは何か、といった事柄は、一意に規定されうるものではない。フーコーが〈エピステーメー〉という言葉で表現したように、〈哲学〉や〈数学〉のような〈学問〉、すなわち人間の〈知〉のあり方は、時代精神とともに変化する。なぜなら、それは、これまでの歴史および社会の変容の中で営まれてきた思想の総体だからである。

 第二に、〈哲学〉と〈数学〉が相互に四則演算可能な学問領域であるならば、両者は同じ範疇に統一され得る。なぜなら、相違なる範疇の概念を相互に四則演算することは不可能であるからだ。四則演算は〈数学〉のという学問領野の中に包摂されてはいるが、そもそも〈数学〉の領域それ自体に四則演算を適用することは可能であろうか。〈哲学〉と〈数学〉を計算式に代入することは、いわゆる「カテゴリーミステイク」ではないのか。それとも自己言及的に可能であろうか。こうした考え方はアリストテレスの学問論に根ざしており、アリストテレス主義と呼ばれる。デカルトが「普遍数学」を構想するまでは、アリストテレス主義が学問の主流だったのである。したがって、〈哲学〉と〈数学〉の関係を考えるにあたって取り上げられるべきはデカルトである。

思考実験その二:等式の変形

 ちなみに、上記の「思考実験その一」の方程式を変形すると、以下のように示される。

思考実験その二

(1)哲学=α−数学

(2)哲学=β+数学

(3)哲学=γ÷数学

(4)哲学=δ×数学

「α/β/γ/δ」によって、〈哲学〉と〈数学〉の関係が示されている。上の「α/β/γ/δ」には一体何が入るだろうか?ここで一つ想像力を働かせてみよう。

(例)

(1)哲学A=自然科学−数学

(2)哲学B=人文学+数学

(3)哲学C=神学÷数学

(4)哲学D=法学×数学

「思考実験その二」の「α/β/γ/δ」に、それぞれ〈自然科学〉〈人文学〉〈神学〉〈法学〉を入れてみた。これによって四つの〈哲学〉(哲学A/B/C/D)の可能性が出てきた。これだけでもすでに〈哲学〉の多様性が示されていることがわかる。

〈哲学〉の条件としての〈数学〉

 冒頭でも言及したように、プラトンは、(〈数学〉の範疇の下にある)算術・幾何学天文学などの科目を修めることを、アカデメイア入門の前提条件として課した。ここではいわば〈数学〉が〈哲学〉の条件となっている。〈哲学〉をおこなうにあたって、こうした条件は正当であろうか。プラトンは、一体なぜ〈数学〉を修めることを〈哲学〉の条件としたのであろうか。そしてもし哲学するためのアカデメイアを現代に復建するとしたら、〈数学〉のどこまでの範囲が入門の条件として課せられるべきであろうか。

 プラトンが〈数学〉に関する科目を〈哲学〉するための条件として課した理由として、真っ先に思い浮かぶことは、〈数学〉を修めることによって、あらかじめ適切な推論の仕方を学んでおくという意義である。だが、プラトン自身の著作は、弁証法によって、つまり対話によって叙述されている。プラトンが〈数学〉科目を〈哲学〉の条件として課したわりには、彼の哲学は文学的に叙述されているといえる。

 幾何学的論証が影響力を持ったのは、時代がもっと降ってからである。それは例えば、幾何学に衝撃を受けたホッブズの社会哲学の著作や、スピノザの『エチカ』の時代に応用され始めたのである。

 現代版のアカデメイア2.0を復建するにあたって、さしあたりヘーゲルの『論理の学』第一巻「存在論」を参照点にしよう。ヘーゲルがそこで言及している数学者や科学者と言えば、アルキメデス(Ἀρχιμήδης, c. 287 – c. 212 BC)、ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)、デカルト(René Descartes, 1596-1650)、カヴァリエリ(Bonaventura Cavalieri, 1598-1647)、ニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz, 1646-1716)、オイラーLeonhard Euler, 1707-1783)、ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736-1813)、シュペール(Friedrich Wilhelm Spehr, 1799-1833)らである。そこでは微積の概念が哲学的に考察されている。したがって、〈数学〉の、少なくとも微積の範囲までは、〈哲学〉するための条件として課せられて然るべきである。

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文献

ヘーゲル『法の哲学』覚書:「抽象法」篇(1)

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ヘーゲル『法の哲学』(承前)

第一部 抽象法

 第34節

 即自的かつ対自的に自由な意志も,この意志がその抽象的概念においてある場合には,直接性〔無媒介性〕という規定性のうちにある.この直接性という規定からすれば,その即自的かつ対自的に自由な意志は実在性に対して否定的で,もっぱら抽象的に自分と関わるにすぎない意志の現実性であり,——一個の主体の,自分のうちにある個別的な意志である。意志の特殊性の契機からすれば,この意志はさらにもろもろの規定された目的からなる広汎な内容をもち,また同時に,排他的な個別性として,この内容を外的で直接に眼前に見出される世界として,みずからのまえにもっている.

(Hegel1820: 41,上妻ほか訳(上)129頁)

「即自的かつ対自的に自由な意志」については、すでに先行する「緒論 Einleitung 」で示されている.もし動物もまた「意志 Wille 」を持つというのなら,その〈動物的意志〉と区別される限りで,「即自的かつ対自的に自由な意志」は〈人間的意志〉と言い換えても過言では無いだろう.

 第一部「抽象法 das abstracte Recht 」が「抽象的 abstracte 」と呼ばれる所以は,この「抽象法」の段階では「即自的かつ対自的に自由な意志」が「直接性という規定のうちにある」からである.この点に関しては前節(第33節)でも触れられている.

 第33節

 即自的かつ対自的に自由な意志の理念の展開の段階行程にしたがって,意志は,

 A 直接的である.それゆえに,意志の概念は抽象的であり,つまり人格性である.そして意志の定在は直接的で外的な物件である.——これが,抽象的な法の圏域であり,あるいは形式的な法の圏域である.

(Hegel1820:,上妻ほか訳(上)121頁)

直接的でそれゆえ抽象的であるということは,個人のアイデンティティとは無縁であるということだ.つまりここでは,どのような身体的特徴を持っているかとか,どのような出自なのかといったこととは無関係に,「法権利 Recht 」を取り扱うというわけである.「実在性に対して否定的で,もっぱら抽象的に自分と関わるにすぎない意志の現実性」というのはこのことを言い表している.

 第34節のダッシュ(——)以下の部分は,「即自的かつ対自的に自由な意志」が,実際には「一個の主体」(要するに「人間」のことなのだが)を離れては存在しないことが補足的に示されている.

(つづく)

文献

読書前ノート(6)佐藤直樹『基礎から身につく「大人の教養」』/カート・セリグマン『魔法』

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佐藤直樹『基礎から身につく「大人の教養」 東京藝大で教わる西洋美術の見かた』(世界文化社、2021年)

 絵画を読み解く能力は、古典を読む上でも欠かせない。例えば、ヴィーコ『新しい学』の口絵には、ルネサンス期の記憶術を踏まえて、エッチングの細かい表現の一つ一つに意味が込められていることが知られている。そうした意味を読み解くには、やはりモチーフとなっているコンテクストを知る必要がある。

 我々は絵画をただ眺めることはできるが、無条件に絵画を読み解くことはできない。本書を読むと、絵画にもテーマがあり、またコンテクストがあるということを思い知らされる。

カート・セリグマン『魔法 その歴史と正体』(平田寛・澤井繁男訳、平凡社、2021年)

 実は最近、アニメ『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』(原作:荒川弘、2009年〜2010年)を見直している。本作をアニメで最初に見たのは私が中学生の頃(2003年〜2004年)だったから、もう十数年も前の作品なのだが、この年になってようやく『鋼の錬金術師』が良く練られた素晴らしい作品であることが徐々に理解できるようになってきた。物語の最初に登場する法則は「等価交換」であり、この法則が一貫して貫かれている。ただし、「等価交換」を考察する際には、マテリアルな次元だけではなく、時間という不可逆な次元も考慮に入れる必要があろう。

 エドワード・エルリックの父であるオーエンハイムの名前は、実在した錬金術パラケルススの名前から取られている。「一は全」というのも、かつて錬金術師が唱えていた言葉であると本書には書かれている。アルフォンス・エルリックは魂だけが鎧に定着しており、眠ることができない。バリー・ザ・チョッパーはアルフォンスに対して、その魂は実は兄によって造られたものなのではないか、その記憶が造られたものではないという根拠はあるのかという問いかけを行う。それによって、アルフォンスは自身のアイデンティティが揺さぶられる。本来の肉体を失って鎧に定着した魂をめぐる哲学的な問いは、将来『攻殻機動隊』の世界のように義体化して永遠の命を得た人類が、それでも「人間」と呼べる存在なのか(はたまたそれをレイ・カーツワイルに倣って「ポスト・ヒューマン」と呼ぶ向きも出てきているが)という哲学的な問いを含んでいる。

 『鋼の錬金術師』の世界では、錬金術の基本は「理解・分解・再構築」だと言われており、その限りで錬金術師はほとんど科学者あるいは化学者と変わらない。ただし、錬成陣と呼ばれる幾何学的な模様は魔術的である。『鋼の錬金術師』という偉大な作品の背後にあるこうしたモチーフを見つけ出すには、本書の概説的な記述が大いに役立つのではないだろうか。