まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

アタナシウス・キルヒャーの著作における図像(1)

目次

はじめに

 以下ではアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher, 1602-1680)の著作からごく一部の図像を取り出してみることにする。キルヒャーについては工作舎から出版されている以下の二冊も参照されたい。

キルヒャーの著作における図像

1641年『磁石あるいは磁気の術』(Magnes sive de arte magnetica)

 

1643年 『エジプトの言語の再構築』(Lingua aegyptiaca restituta)

 

1650年『普遍音楽』(Musurgia universalis, sive ars magna consoni et dissoni)

(『普遍音楽』第1巻)

(第1巻14頁)

(第1巻22頁)

(第1巻476頁)

(第1巻486頁)

(第1巻500頁)

(第1巻512頁)

(第1巻540頁)

(『普遍音楽』第2巻)

(第2巻183頁)

(第2巻184頁)

(第2巻264頁)

(第2巻310頁)

(第2巻336頁)

(第2巻342頁)

(第2巻346頁)

(第2巻366頁)

(第2巻402頁)

(第2巻450頁)

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文献

ヴィーコ『新しい学』覚書(17)

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

ヴィーコのいう「自然神統記」とはヘシオドスの『神統記』のことか

また,ここでは,この新しい批判術諸原理を用いて,人間的な必要または利益の,異教世界の最初の人間たちによって気づかれたどのような特定の時点および特殊な機会に,かれらは,かれら自身がみずから作り出して信じこむにいたった恐るべき宗教をもって,まずはどの神々をついではどの神々を想像していったのかが,省察される.そのような自然神統記,すなわち,最初の人間たちの頭の中で自然的に作られていった神々の系譜は,神々の詩的歴史についての悟性的に推理された年代学をあたえてくれるのである.

(Vico1744: 6-7,上村訳(上)26〜27頁)

単語

  • l.33.【接続詞】E「…と、そして」
  • l.33.【副詞】quivi「そこで」
  • l.33.【前置詞】co'「〜と共に」: 前置詞conの短縮形
  • l.34.【名詞】Principj「原理原則」: 男性名詞principioの複数形
  • l.34.【限定詞】questa「その」: 限定詞questoの女性単数
  • l.34.【形容詞】Nuov'「新しい」: 形容詞nuovoの女性形nuovaの短縮形
  • l.34.【名詞】Arte「芸術」: 女性名詞arte
  • l.34.【形容詞】Critica「批判」: 形容詞criticoの女性形

ここで触れられている内容は,訳者(上村忠男)が示しているように,ちょうど本書第一部「年表への注記」の以下の箇所と対応している.

この時代についておもしろいことをひとつ,神話伝説はわたしたちに語っている.神々は地上で人間たちと交わっていたというのだ.わたしたちもまた,年代学に確実性をあたえるために,この著作において,あるひとつの自然神統記,すなわち,人間的な必要または利益にかかわる一定の機会がおとずれたとき,それらを自分たちに恵みあたえられた援助ないし恩恵であると感じとって,ギリシア人の想像力のなかで自然に作られていった神々の誕生の系譜を省察するであろう(当時は,世界がいまだ幼児期にあって,もろもろの恐るべき宗教に威圧されていた.こうして,人間たちが見たり,想像したりしたもの,あるいはまたかれら自身が作り出したものまでも含めて,これらのいっさいをかれらは神々であると受けとっていたのだった).そして,いわゆる〈大〉氏族の有名な十二の神々,あるいは家族の時代に人間たちによって祭られていた神々について,詩的歴史についての悟性的に推理された年代学を用いて十二の小時期を設けることによって,神々の時代九百年間続いたことが確定される.こうして世俗の世界史に起源があたえられることになるのである.

(Vico1744: 51,上村訳(上)111〜112頁)

ヴィーコがここで「自然神統記 Teogonia Naturale」と呼んでいるものは,これが「ギリシア人の想像力のなかで自然に作られていった神々の誕生の系譜 Generazione degli Dei, fatta naturalmente nelle fantasie de'Greci」である点を考慮すると,おそらく紀元前700年頃の古代ギリシアの詩人ヘシオドス(Ἡσίοδος)の作品とされている叙事詩『神統記』(θεογονία)のことを指していると思われる.「テオゴニアー」という言葉は本来「神々の誕生の系譜」の意である.

 したがってまたヴィーコが「十二の神々 dodici Dei」と呼んでいるのも,ギリシア神話のいわゆるオリュンポス十二神(Δωδεκάθεον)のことであろうと思われる.

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文献

ヴィーコ『新しい学』覚書(16)

目次

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ヴィーコ『新しい学』(承前)

著作の観念(承前)

それというのも,ここで見いだし直される詩のいまひとつ別の新たな諸原理に続いてやってくる,同じくここで発見される神話学のいまひとつ別の新たな諸原理によって,物語〔神話伝説〕というのはギリシアの最も古い諸氏族の習俗の真実にして厳格な歴史であったこと,そして,第一には,神々の物語はなおも最も粗野な状態にあった異教世界の人間たちが人類にとって必要または有用なことどものすべてを神であると信じていた時代の歴史であったことが論証されるからである.なお,そのような創作者最初の諸民族自身であったのであって,最初の諸民族はすべて神学詩人たちからなっていたことが見いだされるのである.疑いもなく神々の物語によって異教諸国民を創建した当の者たちであると伝承がわたしたちに語っている,例の神学詩人たちからである.

(Vico1744: 6,上村訳(上)26頁)

この箇所を読解するにあたって,「物語」という語に注目してみよう.ヴィーコは本書第2巻「詩的知恵」第2部「詩的論理学」第1章「詩的論理学について」の箇所で,「物語」という言葉の語源的解明を以下のように試みている.

論理学Logica〕という言い方はギリシア語のロゴスλόγος〕という語からやってきたものである.これは最初,そして本来は物語を意味していた.それがイタリア語に移し換えられてファヴェッラ〔言葉〕となったのだった.また,物語ギリシア語ではミュートスμῦθος〕とも言われた。そして、このミュートスからラテン語ムートゥス〔無言の/沈黙した〕という語は出てきている.言葉は,人々がまだ無言であった時代に,まずはストラボン*1が黄金のくだりで音声語ないしは分節語以前に存在したと述べているメンタルな言語として生まれたのだった.したがって、ロゴスλόγος〕は観念話し言葉の双方を指しているのである.

(Vico1744: 153,上村訳(上)324〜325頁,訳文は改めた)

「ロゴス λόγος」と「ミュートス μῦθος」とは「物語」を意味するものとして対比的に用いられていた.ヴィーコが「ロゴス λόγος は観念と話し言葉の双方を指している」と述べたとき,ヴィーコは「ロゴス」の相異なる二重の意味を強く認識していたといえる.

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文献

*1:ストラボン(Στράβων, 紀元前64/63-24年頃)は,古代の歴史学者・地理学者.著書に『歴史』,『地理誌』.

ホッブズ『リヴァイアサン』覚書(7)

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ホッブズリヴァイアサン』(承前)

序説(承前)

しかし、近ごろでは理解されていない、もうひとつの格言があって、もし人びとがその労をとりさえしたならば、それによって、ほんとうにおたがいを読むことを、まなびえたであろう。それは、汝自身を読め Nosce te ipsum, Read thyself という格言であり、それが意味したのは、今日つかわれているように、権力をもった人びとの、その下位の人びとに対する野蛮な状態を黙認することでも、ひくい地位のものの、優越者に対する無礼なふるまいを奨励することでもなく、つぎのことをわれわれにおしえることであった。すなわち、あるひとりの人間の諸思考と諸情念が、他のひとりの人間の諸思考と諸情念に類似しているために、だれでも自分のなかをみつめて、自分が思考し判断し推理し希望し恐怖し等々するときに、何をするか、それはどういう根拠によってかを、考察するならば、かれはそうすることによって、同様なばあいにおける他のすべての人びとの諸思想と諸情念がどういうものであるかを、読み、知るであろう、ということである。

(Hobbes1651: 2, 訳39頁)

「汝自身を知れ γνῶθι σεαυτόν 」という古代ギリシアの有名な箴言がある。英語ではこれは Know thyself と訳されるのが普通だが、ホッブズはこれを「汝自身を読め Read thyself 」と訳している。英語の read には「〜を読んで理解する」という意味があるので、ホッブズのように訳すことも可能であろう。なによりホッブズのように訳すことによって、「賢明さは、書物を読むことによってではなく、人びとを読むこと reading によって獲得される」という先に見た格言との連続性が保たれている。

古代ギリシアにおける「汝自身を知れ」の意味

 「汝自身を知れ」という箴言は「デルフォイの神殿におけるアポロンの神託を受けたソクラテスの命題」(藤原2008: 133)として一般的に知られている。

 この箴言は元来、古代ギリシアにおいてはどのような意味で受け止められていたのだろうか。この箴言の当時の理解について、中畑正志は次のように述べている。

GS〔GSは「汝自身を知れ γνῶθι σ(ε)αυτόν 」の略記——引用者〕は、大方の解釈のとおり、自分の分をわきまえよ、身のほどを知れ、という意味で理解されたといってよい。そして身のほどを知る上で大切なのは、まず、神と対比された存在としての人間であることを自覚することだった((Ps,-)Aeschyl. Prom. vinct. 309)。また、身のほどとは、神との関係だけでなく、共同体や他者との関係からも規定される。社会関係のなかでの自己の役割を知ることも、自分自身を知ることの重要な意味であった(Xenophon Cyr. 7.2.20-21)。一見したところ対他的関係からは独立に測定できそうな自己の能力の認知についても、このような自己知の理解が妥当する。クセノポンは、ソクラテスが(デルポイ箴言としての)GSの求める自己知を〈自己の能力を知る〉こととして理解する様子を描いているが、そのような能力とは、馬の能力がその馬の用途との関連ではじめて特定されるように、社会や共同体との要請との関連で特定され、その要請を満たすことができる、ということを意味した(Mem. 4.4.24sqq.)

(中畑2013: 101-102)

要するに、古代ギリシアにおいては「汝自身を知れ」という箴言は、神と共同体という二つの軸において規定された自己を概念的に把握する、という意味で理解されていたのである。したがって、自己に相対するものが神であれ共同体であれ、他者を抜きにして自己を理解することはできないということになる。

ホッブズにおける「汝自身を知れ」の意味

 では、ホッブズはこの箴言をどのように捉えているのだろうか。

 ホッブズによれば、この箴言はもはや「身の程知らずが、身の程をわきまえよ」という意味に転じてしまったという。

 これに対してホッブズは、一人一人の人間には大きな違いがなく、各々がたがいに類似の性質を持っていると考える。だから自分自身への理解を徹底すれば、それは同時に類似の性質をもつ人間一般への理解につながることになる。

 しかしながら、ホッブズによるこの箴言の解釈は、先に見た古代ギリシアにおけるそれとは異なった理解である。すなわち他者(とりわけ共同体)との関係の中で自己を知るという古代ギリシアの思想が、ホッブズにおいては、自分自身を分析的に読み解くことによって自己の延長線上に共同体を知るという思想に変化している。

(つづく)

文献

ホッブズ『リヴァイアサン』覚書(6)

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ホッブズリヴァイアサン』(承前)

序説(承前)

人びとを読むことは可能か

第一に関しては、賢明さ Wisdome は、書物を読むことによってではなく、人びとを読む〔知る〕ことによって獲得されるのだという格言が、近ごろおおいに利用されている。そのけっかとして、互いに相手の背後で無慈悲に非難しあうことによって、自分が人びとのなかに読みとったとおもうことを示して、おおいによろこんでいる人びとがあり、こういう人びとは、その大部分は、そうするよりほかに、賢明であることの証拠を提出することができないのである。

(Hobbes1651: 2, 訳38〜39頁)

「第一に関しては Conderning the first 」というのは、前回見た「第一に、それの素材製作者、それらはともに人間 Man である」という箇所に関してということであり、つまり第一部のテーマである「人間」に関して、ということであろう。

 ただ書物を読むのではなく、人間を書物のように読んで知ることで賢くなれるという諺があるかどうかは寡聞にして知らない。アリババ創業者のジャック・マー(馬雲)は「人は一冊の読みごたえのある本だ。私にとって2万4000人の社員は2万4000冊の本である」(張燕『ジャック・マー アリババの経営哲学』ディスカヴァー・トゥエンティワン)と述べたというが、ホッブズが引いている諺はちょうどジャック・マーのこの考えに近いといえる。その諺は要するに、本を読んで知識を得ているだけではだめで、実際の生きた人びとに目を向けた方がよっぽど賢くなれるよ、ということを主張しているように思われる。

 しかしながら、この諺の見解に対してホッブズは批判的である。というのも、ある人が他人のうちに読み取ったと思い込んでいるものは、実際に読み取られたその人自身でなければそれが真実かどうか分からないからである。こうなると『そもそも人びとを読むことは可能なのか』という疑問が生じてくることになるだろう。そしてホッブズは『人びとを読むことが不可能である』という立場から、推論の出発点を自分自身のうちに向けるのである。

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文献

ベンヤミン「歴史の概念について」覚書(2)

目次

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第二テーゼの解釈

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『個々人のうちには非常に多くの利己心がありながら、どの〔瞬間の〕現在もおのれの未来に対しては一般に羨望を抱かないということは、人間の心の最も注目すべき特性のひとつである』とロッツェは言っている。この省察から導かれる帰結は次のことである。すなわち私たちが抱く幸福のイメージは、私たち自身の人生の経過によって私たちの注意が否応なくそこに釘付けにされた〔過去のある瞬間的〕時間によって徹底的に染め上げられていることである。〔だから〕私たちのうちに羨望の感情を喚起することができるような幸福があるとしたら、そのような幸福はただ、私たちがかつて呼吸したことのある空気のうちにしか存在しない。つまりかつて話をかわすことができたかもしれない人々のことだとか、もしかしたら私たちにからだを任せることがありえたかもしれない女たちのことに関して、私たちは羨望を抱くのだ。言い換えれば、幸福の観念のうちには救済の観念 Vorstellung der Erlösung が譲り渡せぬ権利として unveräusserlich 共振しているのである。歴史がおのれの本分としている過去の観念についても、同じことが当てはまる。過去はある秘密の索引を随行させており、この索引によって過去が救済へと至る道が指示される。かつて在りし人々の周りに漂っていた空気のかすかな気配が私たち自身をそっとかすめてゆくことはないだろうか。私たちが今耳を傾けて聴き入っている声の中に、今では鳴りやんでしまった声のこだまがまじってはいないだろうか。私たちが〔今現在〕求愛の対象として言い寄っている女たちには、彼女たちとはもはや面識を持つこともなかった〔いにしえの〕姉たちがいたのではないだろうか。だとすれば、かつての世代とわれわれの世代との間にはある一つの密約が存在していることになる。だとすれば私たちはこの世で〔過去の人々による〕期待を託されている存在である。だとすれば、私たちにもまた私たちの前に存在したどの世代ともひとしく微力ながらあるメシア的な力が付与されており、この力に対する請求権を持っているのは過去である。〔過去が現在に対して持つ〕この請求権をぞんざいに取り扱うことはできない。史的唯物論はこのことをわきまえている。

(Benjamin 1991: 694、平子2005: 5-6)

前回みた第一テーゼでは、「神学」と「史的唯物論」の共闘という、一見すると相反する概念が示されていた*1。この第二テーゼでは、「神学」と「史的唯物論」がいかにして重なり合うのかが我々のイメージを喚起するようにして示されている。私なりに第二テーゼを図式化すると以下のようになる。

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ただしこの図式化においては、残念ながらベンヤミンの「瑞々しい筆致」(平子)が失われてしまっているので、以下で補足したい。

 第二テーゼを構成する要素としてその背後にあるのは、振動という運動である。もちろんベンヤミンが直截的に「振動」と述べているわけではない。だが、「声」や「こだま」のような音は波の性質を持っており、つまり振動している。その物に固有の振動数があり、それによって物体は共鳴・共振する。そしてその波の声質は「空気」を媒介として耳の鼓膜に伝わる。「かつて在りし人々の周りに漂っていた空気のかすかな気配が私たち自信をそっとかすめてゆくことはないだろうか」というとき、そこには目に見えない振動があったはずである。

 「どの現在もおのれの未来に対して一般に羨望を抱かない」という人間の特性は、未来に対してはこの共鳴・共振運動が働かないということである。そして「幸福の観念のうちには救済の観念が譲り渡せぬ権利として共振している」とベンヤミンがいうとき、我々の人生経験を通じて、自分たちの経験せざる過去に対して我々の共鳴・共振運動が働くことを意味している。過去における固有の振動数に自らの身を合わせその微かな響きを感じ取ること。これこそが我々に等しく与えられた「微力ながらあるメシア的な力」*2であり、これによって、過去は救済されると言える。

羨望と幸福

 ここで「羨望」と「幸福」の関係に注目してみたい。

 まず「羨望 Neid 」(あるいは「嫉妬」)とは、他の人のあり方を見て〈うらやましい〉と思う感情のことである。ベンヤミンにおいては、この「羨望」と「幸福」とが分かち難く結びついている。

私たちのうちに羨望の感情を喚起することができるような幸福があるとしたら、そのような幸福はただ、私たちがかつて呼吸したことのある空気のうちにしか存在しない。つまりかつて話をかわすことができたかもしれない人々のことだとか、もしかしたら私たちにからだを任せることがありえたかもしれない女たちのことに関して、私たちは羨望を抱くのだ。

(同前)

ベンヤミンによって「幸福」として観念されているのは、人と人との交流、または男女の交わりである。換言すればコミュニケーションセックス、この二つに対して人々が「羨望」を抱くことをベンヤミンは鋭く見抜いている。

 ただしここで気になるのは、ここで表現されている「幸福」観あるいは「羨望」の眼差しがきわめて男性的なそれではないか、という点である。「私たちが〔今現在〕求愛の対象として言い寄っている女たちには、彼女たちとはもはや面識を持つこともなかった〔いにしえの〕姉たちがいたのではないだろうか」という箇所も同様に男性的な眼差しから描かれている。こうした男性的な眼差しによって、過去の救済が本当の意味では果たされるのか、筆者には大いに疑問である。

秘密の索引と密約

 かつての世代と私たちの世代との間にある「密約」は、かつての世代の有する請求権に対して私たちの世代が応えることである。そしてその手がかりとなるのが「秘密の索引」である。この索引と約束とがいずれも秘密の存在であるのはなぜなのだろうか。それは後のテーゼで示されるように、通常の歴史が勝者の歴史であるからに他ならない。

(つづく)

文献

*1:ここで「神学」と「史的唯物論」が一見すると相反するというのは、史的唯物論は通常の理解では無神論を標榜しているからである。

*2:我々のメシア的な力が「微力 schwache 」であるがゆえに、先の第一テーゼでは「神学が今日では小さく醜い存在となっている」と表現されている。

A Study on Benjamin's "On the Concept of History" (1)

CONTENTS

Introduction

In the following, I will write about Benjamin's "On the Concept of History" (Über den Begriff der Geschichte, 1940). For the original German text, I refer to Walter Benjamin's Gesammelte Schriften (Suhrkamp Verlag).

Interpretations on "sollen" in the thesis I

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(Benjamin1991: 693)

The thesis Ⅰ contains the sentence, "The puppet, called 'historical materialism' is to win all the time" (Gewinnen soll immer die Puppe, die man >historischen Materialismus< nennt).

Two authoritative Japanese translators, Osamu Nomura and Kenjiro Asai, translate this sentence as "is to win all the time" (いつでも勝つことになっている immer gewinnenn soll). Tomonaga Tairako argues that the issue is what "sollen" means, since they translate this "sollen" to mean "to be said" or "rumor has it".*1

According to Tairako, on the contrary, what is meant by this "sollen" is Benjamin's own intention.*2 Therefore, he calls them "critical mistakes in translation" (Tairako 2005: 4).

 

(Read more in the Japanese version.)

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Bibliography

*1:The German word "sollen" is a cognate of the English words "shall" and "should".

*2:However, in my opinion, the authoritative Japanese translators seem to translate this "sollen" to mean "destiny" or "schedule".