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ベンヤミン「歴史の概念について」覚書(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

第二テーゼの解釈

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『個々人のうちには非常に多くの利己心がありながら、どの〔瞬間の〕現在もおのれの未来に対しては一般に羨望を抱かないということは、人間の心の最も注目すべき特性のひとつである』とロッツェは言っている。この省察から導かれる帰結は次のことである。すなわち私たちが抱く幸福のイメージは、私たち自身の人生の経過によって私たちの注意が否応なくそこに釘付けにされた〔過去のある瞬間的〕時間によって徹底的に染め上げられていることである。〔だから〕私たちのうちに羨望の感情を喚起することができるような幸福があるとしたら、そのような幸福はただ、私たちがかつて呼吸したことのある空気のうちにしか存在しない。つまりかつて話をかわすことができたかもしれない人々のことだとか、もしかしたら私たちにからだを任せることがありえたかもしれない女たちのことに関して、私たちは羨望を抱くのだ。言い換えれば、幸福の観念のうちには救済の観念 Vorstellung der Erlösung が譲り渡せぬ権利として unveräusserlich 共振しているのである。歴史がおのれの本分としている過去の観念についても、同じことが当てはまる。過去はある秘密の索引を随行させており、この索引によって過去が救済へと至る道が指示される。かつて在りし人々の周りに漂っていた空気のかすかな気配が私たち自身をそっとかすめてゆくことはないだろうか。私たちが今耳を傾けて聴き入っている声の中に、今では鳴りやんでしまった声のこだまがまじってはいないだろうか。私たちが〔今現在〕求愛の対象として言い寄っている女たちには、彼女たちとはもはや面識を持つこともなかった〔いにしえの〕姉たちがいたのではないだろうか。だとすれば、かつての世代とわれわれの世代との間にはある一つの密約が存在していることになる。だとすれば私たちはこの世で〔過去の人々による〕期待を託されている存在である。だとすれば、私たちにもまた私たちの前に存在したどの世代ともひとしく微力ながらあるメシア的な力が付与されており、この力に対する請求権を持っているのは過去である。〔過去が現在に対して持つ〕この請求権をぞんざいに取り扱うことはできない。史的唯物論はこのことをわきまえている。

(Benjamin 1991: 694、平子2005: 5-6)

前回みた第一テーゼでは、「神学」と「史的唯物論」の共闘という、一見すると相反する概念が示されていた*1。この第二テーゼでは、「神学」と「史的唯物論」がいかにして重なり合うのかが我々のイメージを喚起するようにして示されている。私なりに第二テーゼを図式化すると以下のようになる。

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ただしこの図式化においては、残念ながらベンヤミンの「瑞々しい筆致」(平子)が失われてしまっているので、以下で補足したい。

 第二テーゼを構成する要素としてその背後にあるのは、振動という運動である。もちろんベンヤミンが直截的に「振動」と述べているわけではない。だが、「声」や「こだま」のような音は波の性質を持っており、つまり振動している。その物に固有の振動数があり、それによって物体は共鳴・共振する。そしてその波の声質は「空気」を媒介として耳の鼓膜に伝わる。「かつて在りし人々の周りに漂っていた空気のかすかな気配が私たち自信をそっとかすめてゆくことはないだろうか」というとき、そこには目に見えない振動があったはずである。

 「どの現在もおのれの未来に対して一般に羨望を抱かない」という人間の特性は、未来に対してはこの共鳴・共振運動が働かないということである。そして「幸福の観念のうちには救済の観念が譲り渡せぬ権利として共振している」とベンヤミンがいうとき、我々の人生経験を通じて、自分たちの経験せざる過去に対して我々の共鳴・共振運動が働くことを意味している。過去における固有の振動数に自らの身を合わせその微かな響きを感じ取ること。これこそが我々に等しく与えられた「微力ながらあるメシア的な力」*2であり、これによって、過去は救済されると言える。

羨望と幸福

 ここで「羨望」と「幸福」の関係に注目してみたい。

 まず「羨望 Neid 」(あるいは「嫉妬」)とは、他の人のあり方を見て〈うらやましい〉と思う感情のことである。ベンヤミンにおいては、この「羨望」と「幸福」とが分かち難く結びついている。

私たちのうちに羨望の感情を喚起することができるような幸福があるとしたら、そのような幸福はただ、私たちがかつて呼吸したことのある空気のうちにしか存在しない。つまりかつて話をかわすことができたかもしれない人々のことだとか、もしかしたら私たちにからだを任せることがありえたかもしれない女たちのことに関して、私たちは羨望を抱くのだ。

(同前)

ベンヤミンによって「幸福」として観念されているのは、人と人との交流、または男女の交わりである。換言すればコミュニケーションセックス、この二つに対して人々が「羨望」を抱くことをベンヤミンは鋭く見抜いている。

 ただしここで気になるのは、ここで表現されている「幸福」観あるいは「羨望」の眼差しがきわめて男性的なそれではないか、という点である。「私たちが〔今現在〕求愛の対象として言い寄っている女たちには、彼女たちとはもはや面識を持つこともなかった〔いにしえの〕姉たちがいたのではないだろうか」という箇所も同様に男性的な眼差しから描かれている。こうした男性的な眼差しによって、過去の救済が本当の意味では果たされるのか、筆者には大いに疑問である。

秘密の索引と密約

 かつての世代と私たちの世代との間にある「密約」は、かつての世代の有する請求権に対して私たちの世代が応えることである。そしてその手がかりとなるのが「秘密の索引」である。この索引と約束とがいずれも秘密の存在であるのはなぜなのだろうか。それは後のテーゼで示されるように、通常の歴史が勝者の歴史であるからに他ならない。

(つづく)

文献

*1:ここで「神学」と「史的唯物論」が一見すると相反するというのは、史的唯物論は通常の理解では無神論を標榜しているからである。

*2:我々のメシア的な力が「微力 schwache 」であるがゆえに、先の第一テーゼでは「神学が今日では小さく醜い存在となっている」と表現されている。