まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

ベンヤミン「歴史の概念について」覚書(1)

目次

はじめに

 以下ではベンヤミン「歴史の概念について」について書きたいと思う。

 ドイツ語の原文はSuhrkamp版のベンヤミン全集を参照し、訳文は第六テーゼまでは平子友長訳(平子2005)を用いる。

第一テーゼの解釈

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周知のように、チェスを指す自動人形が存在したという。この自動人形は、相手がどのような手を指しても人形側にその一局の勝利を保証する応手でもって答えられるように組み立てられていたという。この人形はトルコ風の衣装を纏い、水パイプを口にして、大きなテーブルの上に置かれた盤の前に坐っていた。数枚の鏡を組み合わせたシステムによって、このテーブルはどの方向からも透けて見えるような錯覚を与えていた。ところが本当は、チェスの名人であるせむしの小人がその中に坐っていて、人形の手を紐で操っていたのである。哲学においてもこの装置に相当するものを想像することができる。〔なぜなら〕<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならないからだ。この<史的唯物論>と呼ばれる人形が進学を〔味方につけて〕自分のために働かせることができるならば、この人形はどんな相手とも十分互角に張り合うことができるのだ。〔神学が自動人形を操るせむしの小人に擬せられる理由は〕神学が今日では小さく醜い存在となっており、そのうえ自分の姿を人目に曝すことが許されていないことは、周知のことだからである。

(Benjamin 1991: 693、平子2005: 2)

第一テーゼの解釈をめぐって、まず先行研究を確認したい。徳永によれば、「このテーゼの解釈に関しては、六〇年代末から七〇年代にかけて、大きな論争を巻き起こした」(徳永1991: 5)という。それはどのような論争だったのか。徳永は次のように続けている。

それはベンヤミンにおけるマルクス主義的要素を重視するか、ユダヤ神学的要素を重視するか、別の言い方をすれば、ブレヒトに引きつけて解釈するか、ショーレムに引きつけて解釈するか、をめぐって展開された。すでに邦語への翻訳が問題を含んでいるので、最終行「雇う」が『著作集』版では、「使いこなす」と訳されているが、いったい人形(もしくはその背後にいる人間)が小人を使うのか、小人が人間を操る(lenken)のかで、解釈は大きく別れてくる。さらにベンヤミンがそれぞれ異なった草稿を、(アレントを含めた)数人に送ったことも手伝って、論争はアドルノによるテキストの改ざん問題にまで紛糾した。

(徳永1991: 5)

ベンヤミンのテクストには、一見すると相互に交わらないはずの言葉(例えばマルクス主義と神学のような)が重ね合わされるようにして用いられている。それゆえ、日本語への翻訳自体が問題を常に孕んでおり、ステレオタイプな解釈を許容しない。

sollenをめぐる解釈

 第一テーゼの中に「<史的唯物論>と呼ばれる人形は常に勝たなければならない Gewinnen soll immer die Puppe, die man >historischen Materialismus< nennt. 」という一文がある。平子はこの箇所を「ベンヤミン自身が切実に要求・要望しているという意味」として解釈し、既存訳の sollen の訳出を「致命的な誤訳」とする(平子2005: 4)。

 そもそも sollen は多義的であるが、平子はここで問題となる sollen の意味を二つへと絞り込む。それは第一に「主語の行為・状態について話し手の立場から見れば多少とも疑わしい第三者の主張や言い分を表現する」という意味であり、第二に「主語の行為・状態について話し手自身の意志、願望、要求を表現する」という意味である(平子2005: 3)。既存訳(野村修訳、浅井健二郎訳)は第一の意味を採用し、いずれもこの箇所を「いつでも勝つことになっている」と訳出している*1。このような訳出が「致命的な誤訳」であるのは、それによって「第一テーゼの訳文が正反対の内容に分かれてしまう」からである(平子2005: 4)。

 これに対して鹿島徹は、平子が sollen を二つの意味に絞り込み、どちらか一方の意味だけを正しいものとする解釈の仕方に対して、鹿島は「まさに問題とされるべきは以上の二者択一であろう」(鹿島2015: 85)と応答している。

平子友長は、ベンヤミン史的唯物論と従来のそれとの断絶を認めない立場から、史的唯物論が「勝つことになっている」と訳す野村・浅井訳を「致命的な誤訳」として、「勝たなければならない」と訳し直し、ここでの史的唯物論とはベンヤミンにより擁護されるべきものであるとする。第一テーゼの「史的唯物論」が批判の対象「でしかない」とすると、このテーゼがなんのために書かれたのか分からなくなってしまうとするわけなのだが、しかしまさに問題とされるべきは以上の二者択一であろう

(鹿島2015: 85、下線引用者)

鹿島による上の解釈に対して二点疑問を提起したい。

 第一に、平子の論文には「ここでの史的唯物論とはベンヤミンにより擁護されるべきものである」というような記述はない。むしろ「擁護されるべき」は「史的唯物論」ではなく、ありえたかもしれない過去のイメージなのであって、これを「救済」する責務を「史的唯物論」は負っているという解釈が、平子による諸テーゼの訳出によって詳らかに展開されている。

 第二に、なぜここで「二者択一」が「問題とされるべき」なのだろうか。sollen の多義性を考慮に入れるならば、sollen の意味を確定することはそもそも「二者択一」ではあり得ない。平子のように「歴史の概念について」全体のコンテクストの中で多義的な sollen を一意に解釈することは、一体いかなる意味で「問題とされるべき」なのだろうか。この点が鹿島によって明らかにされていないように思われる。

 ここでの鹿島の問題意識には、もしかすると徳永恂のいう「重層的な構造を読み解く」ことが背景にあったのかもしれない。

問題はマルクス主義ユダヤ神学とを entweder-oder という形で対立させて、どちらかを取捨選択することでもなく、また何人かの論者がやったように、「ベンヤミンは未来に対しては史的唯物論者であり、過去に対しては神学者だった」というふうに分業させたり、「マルクス主義の自由の王国ユートピアと宗教的メシアニズムの共通性」を指摘するという形で両立させたりすることでもないだろう。相反するイメージ、とりわけ過去と未来とをオーバー・ラップさせて、それを透析するという、ベンヤミンのいわゆる「弁証法的イメージ(Bild)」を、ベンヤミン自身の解釈に適用して、表裏顕隠する重層的な構造を読み解くことが求められている。

(徳永1991: 5)

徳永のいう「 entweder-oder という形で対立させ」ることが、まさに先の「二者択一」に当てはまる。だとすれば、鹿島は件の sollen を「二者択一」ではなく「表裏顕隠する重層的な構造」として読み解くことを要求していることになるだろうか。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:この点では山口裕之訳も同じである。鹿島徹訳は「いつでも勝利を収めることになっている」と訳出しているが、既存訳と意味は同じである。