まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(3)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

 私がこの文章の中で君たちが考え・話し・推論する際に君たちにおいて起こっているそのすべてを君たちに教えたいわけではないが、指摘しようと思うのは、君たちをどちらも守るためである。諸観念を持つこと、それを表現すること、それを組み合わせることは、三つの異なる事柄であるが、これらは密接に関連している。ごくわずかなフレーズのうちにこれらの三つの作用が見いだされる。これらの作用はとても混ざり合い、とてもすばやく実行され、一日、一時間、一瞬のうちに何度も繰り返し更新されるので、最初は*1それがいかにして我々において起こっているかのを解明することはひどく困難なように思われる。

(Tracy1804: 3-4)

トラシーは観念に関する「三つの作用 trois opérations 」を取り上げる。

  1. 諸観念を持つこと
  2. 諸観念を表現すること
  3. 諸観念を組み合わせること

これらの作用が混ざり合いながら頭の中で何度も高速に行われているとトラシーはいう。

 1.「諸観念を持つこと」は、何かに影響されて考えを持つにいたったとすれば、受動的な作用だといえるかもしれない。

 2.「諸観念を表現すること」は、外部に対する発信であるならば、能動的な作用だといえるかもしれない。

 3.「諸観念を組み合わせること」は、それによって複合的な新たな観念が生まれるならば、創造的な作用だといえるかもしれない。

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文献

*1:初版「全く tout」(Tracy1801: 19)。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(2)

目次

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デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版(承前)

第一部 固有の意味での観念学(承前)

イントロダクション(承前)

 ホッブズのこの観察はまさしくその通りである。おそらく我々は一緒にそのことの理由へとすぐに到達するであろうが、それまで、君たちはそのことをとても確実だと思っておいてよいであろう。君たちのわずかな個人的な体験が、いかにその経験が広い範囲であっても、すでにその証明を提供していなかったとすれば、私はたいへん驚くであろう。いずれにせよ、はじめに君たちの仲間たちの一人が、ほかの全員には明らかに不条理に見えるような何らかの観念に頑なに執着している場合に、細心の注意を払って彼を観察すると、君たちは、君たちには最も明白だと思われるような理由を彼が理解できないような精神状態にあることがわかるだろう。これはすなわち、同じ観念が彼の頭の中では君たちとは全く異なる順序で前もって配置されているということ、そして先の観念が訂正される以前に邪魔されるに違いないような他の観念が無限にあることに起因するということである。別の機会に君たちは彼に仕返しをすることができるかもしれない。ああ、我が友よ、ひとが間違った哲学体系や子どもたちの遊びにおいて間違った構成に執着するのは、同じ仕方から*1であり、同じ原因によってである。

(Tracy1804: 2-3)

普段の日常の中で『あの人の考えていることはよく分からない、どう考えてもおかしい』ということはないだろうか。こういう時に何が起きているかをトラシーは俯瞰的に叙述している。つまり、その人と自分との間には、頭の中での観念の配列が異なっているのである。

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文献

*1:初版「同じ手法でもって avec les même moyens 」(Tracy1801: 18)。

〔翻訳〕デステュット・ド・トラシー『観念学要論』(1)

目次

はじめに

 かつて私は大井赤亥さん(政治思想史・政治家)に次のようにTweetしたことがあった。

私はこのように「イデオロギー」の原義はデステュット・ド・トラシーの「観念学」であり、マルクス主義的な「イデオロギー」は転義だと述べた。だが、いわゆる「観念学派」の著作を読んだことはなかった。言ってしまった手前、どうしても気になってくる。

 マルクスはかつて「私はマルクス主義者ではない」と述べたという。それゆえ、マルクス主義的な「イデオロギー」とマルクスの「イデオロギー」でさえも、両者を峻別しなければならないであろう。ドイツ語の「イデオロギー」は転義であるが、ならば原義と転義との間でどのような違いが生じているのかについても、やはりはっきりさせなければならないであろう。そうこう考えているうちに、自分なりに原義としての「イデオロジー」から転義としての「イデオロギー」についての概念史*1を、原著に沿って整理したくなってみた。望月によれば、

《idéologie》は、デステュット・ド・トラシによる新造語である。トラシは、これを宣言することにより、新しい学知の理念を明確にした。《idéologie》は、換言すれば《science des idées》、すなわち「観念の科学」であるが、しかしそれは単に理論的に学知の革新を目指したものではなく、それを通して社会変革を志向する、実践的であるという、その意味において優れて思想的なものであった。

(望月2001: 1)

 このような、「イデオロギー」の原義としての「観念学(イデオロジー)」について探究すべく、以下ではデステュット・ド・トラシー(Antoine Destutt de Tracy, 1754-1836)の代表作である『観念学要論』(Élémens d’idéologie, Paris, 1801-1815)の翻訳を試みたい。本書について、阿部は次のように説明している。

 「フランス革命」の最中に, とは言うものの「テルミドールの反動」の後ではあるが, 前述の「イデオローグ」学派によって, 「イデオロジー」という概念が打ちたてられた。この概念は, 現在わたしたちが日常普段に用いている「イデオロギー」という言葉の語源である。しかし, 元来はこの概念は人間が, 「神」などの絶対的価値に囚われることなく, 自由に, 「人間」を基本にしてあれこれ宇宙を組み立てようとする考え方であり, 哲学であった。

 この哲学の提起はデステュット・ド・トラシーが1796年に行ない, 1801年には『イデオロジー論』として刊行された。このイデオロジーに関する著作は1801年に第1巻, 1803年に第2巻, 1805年に第3巻が刊行された。タイトルは次のようであった:

 第1巻:厳密な意味でのイデオロジー

 第2巻:文法学

 第3巻:論理学

 第1巻から第3巻までが, 「イデオロジー論」第一部として, 人間の知覚手段の形成に関する段階的発展に関する研究であった。これに対して, 第二部:知覚手段を人間の意志とその結果へ応用する問題として, 経済学及び道徳(未完)が1815年に発表された。これはそもそも未完であったこともあるが, この段階で, 「イデオロジー論」の体系はストップしてしまった。

(阿部1988: 9-10)

 デステュット・ド・トラシー『観念学要論』の原文はフランス語である。私見では、邦訳はおそらくまだ無いと思われる。訳者(私)はそれほどフランス語は得意では無い。というよりも、修士の頃に研究上の都合で使用したドイツ語と比べると、フランス語に取り組んだ時間は圧倒的に少ないのである。本来であれば、ルソーの著作でも何でも良いのでフランス語の著作に一度沈潜してから翻訳に取り組むべきかもしれない。だが、日中は仕事している為、もはやそんな余裕はない。

 今回の翻訳でもバーボンの翻訳と同様にGoogle翻訳とDeepL翻訳を活用させていただくことにする。実際試して分かったことだが、英語と比べるとフランス語の機械翻訳は訳文がこなれておらず、全然実用に堪えない。結局辞書を片手に最初から訳しなおすハメになっている。誤訳・誤植のオンパレードだと思われるので、どうか心優しい読者の監督を期待する。

デステュット・ド・トラシー『観念学要論』第二版

第一部 固有の意味での観念学

イントロダクション

 若者たちよ、私は君たちに語りかけている。私はもっぱら君たちに向けて書いている。私は、すでに多くの事柄を知り、よく知っている人たちに授業をしようなどと主張するつもりは毛頭ない*2。それを提供する代わりに、私は彼らに啓蒙*3を期待する。そして、下手に知識を持つ者たち、すなわち、非常に多くの知識を持っている者たちが、自分たちは確実だと思い込んでいるような誤った結果を引き出し、長きにわたる習慣によってつなぎ留められている者たちについては、私は、彼らに自分の考えを提示することからはもっとほど遠いのだ。なぜなら、最も偉大な近代哲学者の一人が述べているように(原注1)、『人々がひとたび誤った意見を受け入れて、その意見を真摯に彼らの精神〔知性〕に記憶してしまうと、すでに文字の〔ごちゃごちゃ〕入り混った紙に読みやすく書くのと同じように、彼らに明瞭に話すことはまったくもって不可能である』からだ。

(Tracy1804: 1-2)

イントロダクションの冒頭で、トラシーは「若者たち」に語りかけている。これは要するに、若者にはまだ知識が十分備わっていないがゆえに、トラシーの述べることが、かえってすんなり理解できるのだということであろう。このようにトラシーは、自身の語る「観念学」が、従来の慣習に相反するものであることを示唆するのである。

 (原注1)には、ドルバック(Paul Thiry, baron d’Holbach, 1723-1789)によって翻訳されたホッブズ『人間本性論』が指示されている(Hobbes, Traité de la Nature humaine, traduction du baron d’Holbach.)。ホッブズの著作に "Human Nature: or The fundamental Elements of Policie" (1650) というものがあるが、これを翻訳したものだろうか。

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文献

*1:イデオロギー」についての文献は山ほどある。「イデオロギー」についての最も有名な著作は、マルクスエンゲルスらの手による草稿、通称「ドイツ・イデオロギー」であろう。ちなみにマルクスの「パリ・ノート」(1844-45年頃)の「ノートⅤ」には、デステュット・ド・トラシー『観念学要論』からの抜粋ノートもみられる。そのほか、マンハイム『イデオロギーとユートピア』ハーバーマス『イデオロギーとしての技術と科学』アルチュセール『再生産について』、また近年ではジジェク『イデオロギーの崇高な対象』イーグルトン『イデオロギーとは何か』も無視できないであろう。

*2:初版「私は、すでに多くの事柄を知り、よく知っている人たちに教授しようなどと主張するつもりはない Je n'ai la prétention de rien apprendre à ceux qui savent déja beaucoup de choses, et les savent bien 」(Tracy1801: 17)。

*3:初版「教養 instructions 」(Tracy1801: 17)。

内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件について

はじめに

 今回は「内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件について」というタイトルで書きたい。

 最初に断っておくが、私は仕事をしている身であるから、この事件についてきっちり書く余裕がない(なので、まずはざっくりと概要を書き上げ公開した上で、後に適宜加筆修正を施す予定である)。またこの件に関しては、すでに大学や有識者から声明が出ているので、全ての論点に言及する必要はないだろう。私なりに書いておくべきと思われることだけを取り上げる。

問題の所在

 私の家にはテレビがないので、ワイドショーでどのように取り上げられているのかは知らない。が、一部の番組(『バイキング』という?)では、日本学術会議について不適切な解説が行われたという(日本学士院と混同しているとか、年金がたくさんもらえるとか…、まああれだけ優秀な人たちなんだから別に年金もらったって良いじゃんと個人的には思うのだが)。

 そしてTwitterを見ていて思うのは、論点がものすごく拡散しているということ。特に日本学術会議がどのような組織で、その活動に十分意義があるのかとか、どうでも良いことに注目が集まってしまっているように思われる。問題はそこではない。

 日本学術会議法というものがある。法律とは明文化された決まりごとである。これには当然、内閣総理大臣であろうと、いかなる政治家であろうと、基本的には従わなければならない。

 この日本学術会議法によれば、日本学術会議の新会員は、会員の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する、というように書いてあるそうである。そしてこれは中曽根(当時:総理大臣)の発言記録にもあるように、形式的なものであって、実質的なものとしては捉えられていないという解釈がされてきた。

 内閣総理大臣には形式的な任命権しか許されておらず、実質的な任命権は許されていない。これはどういうことなのか。

 日本学術会議の新会員を推薦するにあたって、誰を推薦するかというのは、この会議に属する学者である。学者というのは極めて高度な研究を行なっているのだから、同じ学者でなければ新会員に推薦すべきか否かを判断することができないはずだ。つまり、任命権の「実質的」なものとは、新会員にふさわしいか否かを判断する能力を意味する。

 もし内閣総理大臣に実質的任命権まで認められているとしたら、内閣総理大臣自身が学者の研究を見極められるほど優秀であり、それによって新会員にふさわしいか否かを判断する能力を有していなければならない。だが、こういうケースは稀にしかあり得ないだろう。

 今回の事件では、6人の学者を名簿から外して、他の99人を新会員として任命した。従来の法解釈に従うなら、当初内閣官邸に提出されたリストに掲載されていた105人の推薦された者を全員そのまま内閣総理大臣が新会員として任命しなければならないはずだ。

 しかし今回は歴史学者や法学者、政治学者らの6人に関しては任命しなかった。このことは政府の何者かが実質的任命権を行使したことを意味する。しかし、日本学術会議法における内閣総理大臣による任命は形式的なものだと解釈されてきたのだから、実質的任命権を行使することは違法である。

 政府はこれに対して「適法」だと述べているのだから、非常にたちが悪い。政府が違法を適法と言いくるめている言い方は、任命権という法は「義務的なものではない」というものである。権利に対して義務を持ち出している。

 だが、今回の内閣総理大臣による「日本学術会議」の新会員の任命は、内閣総理大臣に対して新会員を推薦に基づいて任命する権利までは認められているものの、新会員を選択する権利までは認められていないと解されるべきである。むしろ任命する権利はそれを行う義務とセットである

 総理官邸に「日本学術会議」の新会員の人選を許容するということは、この法律の恣意的な運用を許容することを意味する。権力者による法の恣意的運用は、権力の濫用につながる。非常に危険である。

私の見解

 私の基本的な見解についてはすでにTwitterで次のように述べておいた通りである。

以下補足。

 

 今回の事件が「デモクラシーの問題に解消されてはならない」というTweetは、三浦瑠璃さんのTweetに反応したものである。

三浦瑠璃さんがこの事件を「民主主義の問題だとは思っておりません」と述べている点は非常に慧眼であると私は思う。三浦さんはおそらく、この件を民主主義の問題として捉えてしまうとポピュリズム日本学術会議の存在を許容しないだろうから、結果的に政府による任命拒否を支持することになるだろうという結末を見通しているように見える。だから、民主主義の問題に解消してしまうのは悪手なのである。

 私は三浦さんとは別の意味で、この件を民主主義の問題に解消してはならないと考えている。この事件はきわめて「立憲君主制」的な問題なのである。「立憲君主制とは何か」という点についてはヘーゲルの『権利の哲学の基本線』(G.W.F. Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, 1820)、いわゆるヘーゲルの『法の哲学』を参照されたい。ヘーゲルの政治国家論では、君主権力からその恣意性がピンからキリまで剥奪されている。君主権力に恣意的な決定権を与えてしまうことがどれだけ恐ろしいことかをヘーゲルはよく認識していたと思うし、また同時に民衆に恣意的な決定権を与えることの恐ろしさもヘーゲルは認識していた。ヘーゲルにとってはどちらも理性的国家からは程遠く、現実的ではなかったのである。

 現下の日本は民主主義国家だと誰もが思い込んでいるが、実は構造的には立憲君主制である(堅田2015)。とはいえ、天皇制というローカルな習俗性と西欧的な民主主義とのハイブリッドな意味での立憲君主制であるから、立憲君主制の特殊的な形態でもある。天皇国璽行為が立憲君主制の一部をなしている。GHQのテコ入れにより、日本国憲法では天皇からはその恣意的な決定権が根こそぎ剥奪されている。つまり国家における「形式的なもの」の意味は、恣意的な決定権の剥奪にあると言っても過言ではない。

 今回の事件が天皇による内閣総理大臣の任命になぞらえて議論される向きもあった。今回のケースがまかり通れば、天皇内閣総理大臣の任命を拒否できることになってしまうのではないかというのである。両者のケースを直ちに混合すべきではないという見方が一部の法律家から出ているが、内閣総理大臣天皇に対する関係であれ、日本学術会議内閣総理大臣に対する関係であれ、いずれのケースにしても恣意的な決定権を任命者自身に許容するか剥奪するかという観点から整理すれば、全く無関係であるとも言い切れないであろう。

 

 また日本学術会議が国民にとって関係があるか云々というTweetは、西田亮介さんのTweetに反応したものである。

西田亮介さんのこのTweetは一時炎上気味であったが、今はだいぶ収束したようである。このTweetで、政権の問題を日本学術会議の組織の問題にすり替えていることに対して、西田さんは疑問を呈しているのだと思う。この文章を冷静に読めば、たしかにその通りなのであるが、煽り度が非常に高いクオリティになっている。

 ワイドショーで日本学術会議のあり方を疑問視したり、この組織そのものに関心を向けた議論は、今回の問題からズレていると思う。税金を使っているとか、中国に人を送っているとか、それは今回の事件とは別の問題であって、もちろん大いに議論してもらって構わない。だが、その場合には、今回の内閣総理大臣および総理官邸の問題が法の解釈および運用の問題であることが理解されていないか、筋の悪い連中が噛み付いているような印象を受ける。

 では、日本学術会議が国民一般にとって無関係だから、今回の事件も無関係だということには当然ならない。ルソーは『社会契約論』の冒頭で次のように述べている。

自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、私の発言が公けの政治に、いかにわずかの力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。

ルソー『社会契約論』

菅義偉(現:内閣総理大臣自由民主党総裁)は、我々国民の投票によって選ばれた政治家である。我々国民はルソーのいう「主権者の一員として…投票券をもつということだけで」、今回の内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件についてについて研究し論ずる義務を十分課せられているといえるのである。

文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(11)

目次

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

ある商品から別の商品への転化、そして貨幣
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 同等の価値の属する諸事物のうちには相異や格差はない。すなわち、ある商品は、同一の価値を有している別の商品と同等の財である。百ポンドの値打ちがある鉛や鉄は、百ポンドの値打ちがある銀や金と同等の価値がある。また、百ポンドの値打ちがある布は、百ポンドの値打ちがある上質な布と同等の価値がある。百ポンドの値打ちがあるトウモロコシや畜牛を保有している男は、百ポンドを金銭として保有している男と同等の富豪である。なぜなら、彼のトウモロコシと畜牛はすぐに大金へと転化できるからである。そして、商人や貿易商は常に自分たちの金銭を諸商品へと交換している。なぜなら、彼らは金銭よりも諸商品によってより多くを得ることができるからである。そのような商品は、そのような諸商品が最も不足しているところに輸送するか、またはそのような諸商品の姿形を変化させることによって、より有用なものとなり、それによってより多くの価値の属するものとなるからである。

(Barbon1696: 7-8)

バーボンはここで同じ金額の商品は同じだけの価値があるとみなす。そして同価値であることによって、商品間での交換が可能となる。

 前回見たように、同一の用途でもない限り、商品の豊富さや希少性がその価値(価格)には影響を与えないとされていた。しかし、だからといって、異なる商品が全く比較できないわけではないのである。

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 さて、もしあらゆる諸事物の価値がそれらの使用から生じるのなら、もし豊富さや希少性が諸事物を高価または安価にするならば、もし銀がいくつかの用途のための商品であり、そしてある場所では他の場所よりも豊富であるとすれば、そのときには、銀が何らの確固たる価値または内在的価値をも有することができないという帰結が必然的に出てくるに違いない。そして銀がある確固たりえない価値の属するものであるならば、それは商業と交通の道具には決してなり得ないのである。なぜなら、それ自身の価値が確固たりえないものが、別の価値の確固たる尺度であることは決してあり得ないからである。

(Barbon1696: 8)

バーボンは、これまで自身が示してきた経済法則をもとに、銀がその供給量に応じてその価値が変動するならば、銀の価値は「確固たるもの Certain 」ではないので、それを貨幣として用いることはできないのではないか、という問題提起を行なっている。

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文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(10)

目次

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

商品の価値と用途
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 同一の用途でもない限り、ある商品の豊富さが別の商品の価値を変えることはない。鉄や鉛の豊富さがトウモロコシや布のいずれかをより安価にまたはより高価にすることはないであろう。なぜなら、鉄や鉛はどちらも食料品や衣料品の欲求を満たすことはできないからである。

(Barbon1696: 7)

すでに見たように、バーボンは「豊富さは諸事物を安価にし、希少性は諸物を高価にする」(Barbon1696: 5)と述べ、その物の供給量に応じて価値が変化することを指摘していた。その上で、このパラグラフでは、豊富さや希少性が価値に影響を与えるのは、「同一の用途 same use 」を持つ商品(ただし同一の材質からなる商品ではない点に注意が必要である)の間に限定されることを述べているのである。

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 金・銀は鉛や鉄と同様に諸商品である。その豊富さや希少性に応じて、それで作られた諸物がより高価になったり、より安価になったりする。すなわち、金・銀の食器、刺繍などであっても、それらがトウモロコシ、布、鉛、鉄などをより高価にしたり、より安価にすることはできない。なぜなら、それらはこうした諸商品の諸用途を供給することはできないからである。

(Barbon1696: 7)

金や銀がトウモロコシや布の価格に影響を与えないのは、金や銀が金属でトウモロコシが食料品で布が衣料品だからではない。金や銀はその「用途」からして、トウモロコシや布、鉛、鉄の代替品にはなり得ないからである。

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文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(9)

目次

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

「内在的効能」の普遍性
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 だが、諸事物はそれ自身のうちに、すべての場所で同一の効能を有する内在的効能を有している。鉄を引きつける天然磁石や、香草や麻薬に付属するいくつかの性質、ある下剤、ある利尿剤などのように。しかし、これらの諸物がたとえ大きな効能を持っていても、それらが豊富な場所か希少な場所かによって、価値や価格が小さかったり、あるいは全くないということもあるかもしれない。赤い刺草アカソのように、止血するのに優れた効能があるものの、しかしここではそれはその豊富さから無価値な雑草である。そして、香辛料や麻薬も、それら自身の生まれ故郷では何の価値もなく、ふつうの低木や雑草のようなものであるが、我々にとっては大きな価値があり、どちらの場所でも同一の優れた内在的効能がある。

(Barbon1696: 6-7)

バーボンは諸事物がその「内在的価値 Intrinsick Value 」を有することを認めないものの、その「内在的効能 Intrinsick Value 」については認めている。

 「内在的効能」の特徴は、同じ効力が場所を問わずどこでも通用する点にある。

 「赤い刺草 Red-Nettle 」というのは、おそらくアカソ(赤麻、Boehmeria tricuspis、イラクサ科、カラムシ属)のことであろう。アカソはその茎の繊維の丈夫さゆえに、その繊維を取り出して古代より布として織られるのに用いられてきたという。

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 普通の諸事物には何の価値もない。男が蒐集の目的で保有していたようなものに支払いたいと思う男はいないからである。

(Barbon1696: 7)

たとえば河原に落ちている石ころとか、何でもない物を収集する人がいるかもしれない。それは収集するその人にとっては喜びかもしれないが、他の人にとっては無価値である。

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