まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(8)

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

「価値」と「効能」、あるいは「交換価値」と「使用価値」
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 価値と効能の区別がつかないことほど、この論争を悩ませるものはない。

(Barbon1696: 6)

バーボンは諸物の「価値 Value 」と「効能 Vertue 」を区別する。

 「価値」とは、次のパラグラフで示されているように、「諸事物の価格 Price 」のことである。これを「交換価値」として理解しても差し支えないだろう。

 これに対して「効能 Vertue 」とは、諸物の持っている使用上の効力のことだろう。マルクスはこれを「使用価値」として理解している(『資本論』第一巻)。

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 価値とは諸事物の価格に過ぎない。それは決して確固たるものではあり得ない。なぜなら、〔もしそうであれば〕それはいつでもどこでも同一の価値でなくてはならないからである。したがって、どんな事物も内在的価値を持ち得ない。

(Barbon1696: 6)

バーボンは諸事物が「内在的価値 Intrinsick Value 」を持つことを認めていない。というのも、諸事物が「内在的価値」を持つとすれば、その価値は外部環境によって左右されることがないので、固定化されるはずであるが、実際にはその価値(=価格)は供給量に応じて変動するからである。

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文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(7)

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

諸事物の価値は何によって決まるか
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 この法則によりあらゆる諸事物の価値は統制されている。なぜなら、諸事物の価値がもっぱらその使用にのみ頼り切っている場合、もしそれらの諸事物が使い切れる以上にあるならば、残りは何ら使用することも、何らの価値を有することもあり得ないからである。身体と精神の二つに共通のコモン諸欲求は、食料品か装飾品のいずれかに向けられている。食料品向けの商品コモディティは腐りやすく、もし期限内に使用されなければ無駄となって何の役にも立たない。そして、装飾品向けの商品は、豊富さがその商品を普通コモンかつ安価にし、その用途を失わせ、そしてそれゆえにその価値を失わせる。

(Barbon1696: 5)

「この法則」とは、前のパラグラフで示されている、豊富か希少かがその事物の価値を決定するというものである。この法則を反証できるかどうかを示すために、バーボンは敢えて「使用」から事物の価値が決まると仮定するとどのように考えられるのかをここで示しているのである。

 ここでバーボンが「食料品 Food 」と「装飾品 Ornament 」の例を出しているのは、経済学における「正規財」の「必需品」と「奢侈品」との区別に対応するだろう。

 食料品には消費期限がある。食料品は放っておくと腐ってしまう。これが貴金属とは異なる点である。

 それに対して装飾品は、食料品と異なって腐らない。だが、装飾品は希少だから価値を持つのであって、豊富に存在するならその価値を減じてしまう。

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 珍しさと希少性が、装飾品向けに使用される諸事物の価値を決める主要な理由なのであって、それ自体におけるいかなる優れた性質もその〔物の価値を決める主な〕理由ではない。これが、金のブレスレットよりもガラスビーズのブレスレットの方がギニー〔という硬貨〕上ではより一層の価値がある理由である。ガラスを作る技術に通じておらず、ガラスよりも金を豊富に持っている人々にとっては、〔金のブレスレットよりもガラスビーズのブレスレットの方が〕より一層珍しい。そして同じ理由により、鉄鉱山がなく、銀鉱山が豊富にある諸国では、〔銀製の諸物よりも〕ナイフおよび鉄製・鋼製の諸物の方が、より一層の価値がある。もし諸事物の価値がそれに付属している性質から生じるとすれば、鉄製・鋼製の諸物は、銀製の諸物よりもはるかに有用であるがゆえに、より一層大きな価値を持つはずだ〔が実際にはそうではない〕。

(Barbon1696: 5-6)

ヴァージニア・ウルフの作品に『三ギニー』というものがあるが、「ギニー」とはイギリスの金貨のことである。

 このパラグラフでも、やはり希少性こそが諸事物の価値を高めることをバーボンは論じている。しかもそれをガラスや金・銀・鋼といった原料が豊富か希少かという観点から論じている。

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文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(6)

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

価値は何によって変化するか
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 精神の諸欲求を満たす諸事物は、ただ評判オピニオンだけを頼りにしている想像上のあるいは人為的な価値しか持っておらず、そしてそれらの諸事物の諸価値は、それらの諸事物を使用する人たちの気分ユーモア気まぐれファンシーにつれて変化する。そしてそれらは、流行遅れであるがゆえにその価値を失う高級なリッチ衣服のようである。

(Barbon1696: 4-5)

すでに以前のパラグラフで見たように、「精神の諸欲求を満たす諸事物」はアクセサリーのような奢侈品であり、そうしたものを身に着ける富豪は他人の「評判 opinion 」に価値の軸を置いているといえる。だから金持ちの「気分や気まぐれ」によってコロコロと価値が変動してしまう。流行が廃れればその物にもはや用はなくなり、価値もなくなる。

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 諸事物の価値を創出するのは、諸事物の機会と有用性である。そして諸事物の機会または使用の観点では、諸事物をより大きな価値またはより小さな価値のものにするのは、諸事物の豊富さまたは希少性である。豊富さは諸事物を安価にし、希少性は諸事物を高価にする。

(Barbon1696: 5)

古典派経済学において〈需要と供給〉という言葉で定式化されているように、諸事物は多ければ多いほど価格が下がり、安価となる。これに対して、希少なものの価値は高くなる。

 注意しなければならないのは、諸事物の〈豊富さ〉とその諸事物を用いる〈機会〉とをバーボンが区別している点である。例えば、ビットコインのマイニング工場では、演算能力を高めるために大量のGPU仕入れられた。しかし、GPUの演算能力は年々増大するので、過去に大量に仕入れられたGPUは後に新たな高性能GPUが発売されるやいなや、絶対的な性能としてではなく相対的な性能が低下してしまう。その結果として、過去のGPUはわずかな期間で役に立たなくなりその〈有用性〉を失ってしまう。これによって同時に過去のGPUはそれを用いる〈機会〉をも失ってしまう。過去のGPUは、いまではそれが豊富にあるとしても、それを用いる〈機会〉がなくなればその価値もまた消失してしまうのである。こうした点を考慮するならば、諸事物の〈有用性〉が変動することによってその〈機会〉にも影響を及ぼすといえるだろう。

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文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(5)

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

古代の神話のうちに見いだされし重商主義
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 これは、オウィディウスがミダースの物語によって反論しようと努めている古代の意見であったように思われる。バッコスはミダースにより饗宴でもてなしを受けたことから、返礼として、其方の望むものを何でも与えよう、と彼に話した。そして金こそ唯一の富であるという意見から、自分の触れるものは何でも金に変えてほしい、とミダースは望んだ。彼の願いは聞き入れられ、彼は歓喜した。だが、空腹になったことで、自らの過ちを確信した。なぜなら、彼がワインと肉に触れるやいなや、それらはすぐさま金に変わったからである。もしミダースがその渇きを癒すには金よりも水の方が価値があるという経験をした後、バッコスが自らの親切なもてなしのために川へ行水するよう彼をやり、彼の金を水へと転換するように彼を仕向けておかなかったとしたら、ミダースは餓死していたであろう。

(Barbon1696: 4)

ここで取り上げられているのは古代の神話である。ミダースΜίδας)はギリシア神話に登場する王様のことである。ローマ神話に登場するバッコスΒάκχος)は、ギリシア神話に登場する神であるディオニューソスΔιόνυσος)の別名である。

 金や銀のような貨幣を富とみなしてその蓄蔵を主張したのは重商主義者のマリーンズ(G. de Malynes, fl. 1585–1627)である(中村ほか2001: 17)。だが、それよりも遥か昔の神話に着目して、そこに「金こそが唯一の富である」という見解をバーボンが見いだしているのは興味深い。

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文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(4)

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

「内在的価値」の行方
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 身体の諸欲求を満たし、生活を支える諸事物は、実在的で自然的な価値を有していると勘定されてもよいであろう。それらの諸事物はいつでもどこでも価値の属するものである。そしてもしおのれ自身のうちに内在的価値を有している諸事物があるならば、それらは畜牛とトウモロコシであろう。故に、賎民は家畜を数え上げるPauperis est numerare pecus〕という諺によると、古代の時代には富の計算は畜牛の数によって行われていたのである。

(Barbon1696: 3-4)

ここから「内在的価値 Intrinsick Value 」をキーワードとした議論に軸足が移っていく。

 Pauperis を「賎民」と訳したが、山下太郎によれば「家畜を数えるのは貧乏人の性分である Pauperis est numerare pecus 」という一文は、オウィディウス『変身物語』(Ovidius, Metamorphoses, Lib. ⅩⅢ: 824)に認められる*1

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 金と銀には実在的な内在的価値があり、それらはひとえに富や財宝と見做されるべきだ、という意見もある。

(Barbon1696: 4)

ここで取り上げられている「意見 opinion 」は、バーボン自身のものではない。金と銀とはいわば奢侈品であり、 先に考察された「身体の諸欲求を満たし、生活を支える諸物」とは異なり、むしろ「精神の諸欲求」を満たすものであるからである。

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文献

*1:山下太郎のラテン語入門「Pauperis est numerare pecus.」(2014年3月30日)。オウィディウス『変身物語』の新訳が、ちょうど昨年から今年にかけて刊行されている(オウィディウス2020)。

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(3)

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ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

ひとびとは何によって格差をつくるのか
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 これら二つの一般的な諸欲求を満たすことで、あらゆる種類の諸事物はある価値を有している。だが、それらの諸事物の中でも最も多くのものは、精神の諸欲求を満たすことでその価値を有している。最も価値のある諸事物は、あらゆる種類の高級カーテン・金・銀・真珠・ダイヤモンド、そしてあらゆる種類の宝石などのように、生活の華美を飾るために使用される。それらの諸事物は、装飾したり着飾るために使用される。それらは富の徽章バッジであり、それらはひとびとの間で選好の格差ディスティンクションをつくるのに役立つ。

(Barbon1969: 3)

バーボンによれば、 欲求には「身体の諸欲求」と「精神の諸欲求」とがあり、これらの欲求を満たす物はそのほとんどが「精神の諸欲求」を満たすものである。

 「あらゆる種類の高級カーテン・金・銀・真珠・ダイヤモンド、そしてあらゆる種類の宝石」といったものは、近代経済学では「奢侈品 luxury goods 」と呼ばれるものである。経済学では、「正規財 normal goods 」は「需要の所得弾力性 income elasticity of demand 」におうじて「奢侈品 luxury goods 」と「必需品 necessity goods 」の二つに区別される。

 バーボンの考察は、こうした近代経済学の観点とは異なり、アクセサリーをそのシンボリックな効果から理解するのに役立つ。アクセサリーは個人の特徴を引き立てるために身に着けるものである。アクセサリーにはその人の「選好 Preference 」が反映されており、それが他人との「違い distinction 」をなしている。バーボン自身は論じていないが、身に着けるアクセサリーによるこうした「違い」は、富者と貧者といういわば〈階級〉間の「格差 distinction 」を示すものでもある*1

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 これら二つの一般的な諸欲求は、人類が生まれつき持っているものであり、人類にとってごく自然なものであるため、人類は自らの享楽するものよりも、むしろ自らの欲するものによって、よりいっそう区別される。貧しい男は一ポンド、金持ちの男は百ポンド、他の者たちは数千ポンド、或る君主は、数千万ポンドを欲する。欲望と欲求は富とともに増大する。そして、そこからいえるのは、満足した男こそが唯一の富豪の男リッチ・マンである、なぜなら彼は〔これ以上〕何も欲しくないのだから、ということである。

(Barbon1696: 3)

上では Man を敢えて「男 Man 」と訳した。今日のジェンダー学の観点から言えば、「人 Man 」といってもその背後にはやはり「男 Man 」が観念されているであろうと思われるからである。

 「満足した男こそが唯一の富豪の男である」という逆説は、一見すると突拍子もないものであるように思われる。が、貧者が富者になったところで「欲望と欲求は富とともに増大する」のであるから、欲望や欲求を満足させるためには、より多くの物が必要となってくる。そうして肥大化した欲望や欲求を満足させるほどに十分な環境にいるならば、そのときこそ彼は本当に「富豪の男 Rich Man 」だといえるわけである。

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文献

*1:こうした「格差 distinction 」を〈趣味〉の観点から考察したものとしてはブルデュー2020をみよ。

「価値」についての覚書

目次

はじめに

 以下では、これまでに「価値」という概念がどのように論じられてきたのかを、トマス・ホッブズアダム・スミスカール・マルクスらの著作を通してみていきたいと思う。

ホッブズの「価値」論

 ホッブズは『リヴァイアサン』の中で「価値」について次のように述べている。

《値うち》ある人の価値 Value すなわち値うち WORTH は、他のすべてのものごとについてと同様に、かれの価格であり、いいかえれば、かれの力*1の使用に対して与えられる額であり、したがって絶対的なものではなくて、相手の必要と判断に依存するものである。兵士たちの有能な指揮者は、現在のあるいは切迫した戦争のときには、おおきな価格をもつが、平和においては、そうではない。学問があり清廉な裁判官は、平和のときには、おおきな値うちがあるが、戦争においては、それほどではない。そして、他のものごとについてと同様に、人間についても、売手ではなく買手が、その価格を決定する。すなわち、ある人が(たいていの人がするように)自分を、できるだけたかい価値で評価するとしても、その真実の価値は、他の人びとによって評価されるところを、こえないのである。(Hobbes1651: 42、訳152〜153頁)

ここでホッブズ人間の「価値」について論じているのであって、物の「価値」について論じているのではない。が、人間の「価値」は物の「価値」と同様に扱われるという点をホッブズは鋭く指摘している。ホッブズの『リヴァイアサン』には社会契約論において有名な自然状態と市民状態の区分があるが、この区分と同様に、戦争状態と平和状態において人の「価格」もまた変動するとホッブズはいう。なぜなら状況に応じてその場面で求められる有能さが変わってくるからである。

 ここでの論点のひとつは「価格はいかにして決定されるのか」ということである。ホッブズによれば、価格は買手によって決定され、売手は価格決定権を持たない。主観的に自己に対してどれほど高い価値を置こうとも、客観的にそのように評価されなければ、その価格はけっして高くならない。つまり、他者による価値評価がそのままその価格に直結しておりそこに反映されるというわけである。

 ホッブズの「価値」や「価格」についてのこのような考え方は、経済学の「プライステイカー」の議論と合わせて詳しくみておく必要もあると思うが、それ以上に「評価経済」(レピュテーション・エコノミー)という最近の考え方と親和的であり、古い議論だからといって決して無視できないものである。

(つづく) 

文献

*1:ホッブズは「力」を次のように定義している。「ある人の力 POWER of a Man とは、(普遍的に考えれば)、善〔利益〕だとおもわれる将来のなにものかを獲得するために、かれが現在もっている道具である。そしてそれは、本源的 Originall であるか手段的 Instrumentall である。」(Hobbes1651: 41、訳150頁)。