まだ先行研究で消耗してるの?

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「価値」についての覚書

目次

はじめに

 以下では、これまでに「価値」という概念がどのように論じられてきたのかを、トマス・ホッブズアダム・スミスカール・マルクスらの著作を通してみていきたいと思う。

ホッブズの「価値」論

 ホッブズは『リヴァイアサン』の中で「価値」について次のように述べている。

《値うち》ある人の価値 Value すなわち値うち WORTH は、他のすべてのものごとについてと同様に、かれの価格であり、いいかえれば、かれの力*1の使用に対して与えられる額であり、したがって絶対的なものではなくて、相手の必要と判断に依存するものである。兵士たちの有能な指揮者は、現在のあるいは切迫した戦争のときには、おおきな価格をもつが、平和においては、そうではない。学問があり清廉な裁判官は、平和のときには、おおきな値うちがあるが、戦争においては、それほどではない。そして、他のものごとについてと同様に、人間についても、売手ではなく買手が、その価格を決定する。すなわち、ある人が(たいていの人がするように)自分を、できるだけたかい価値で評価するとしても、その真実の価値は、他の人びとによって評価されるところを、こえないのである。(Hobbes1651: 42、訳152〜153頁)

ここでホッブズ人間の「価値」について論じているのであって、物の「価値」について論じているのではない。が、人間の「価値」は物の「価値」と同様に扱われるという点をホッブズは鋭く指摘している。ホッブズの『リヴァイアサン』には社会契約論において有名な自然状態と市民状態の区分があるが、この区分と同様に、戦争状態と平和状態において人の「価格」もまた変動するとホッブズはいう。なぜなら状況に応じてその場面で求められる有能さが変わってくるからである。

 ここでの論点のひとつは「価格はいかにして決定されるのか」ということである。ホッブズによれば、価格は買手によって決定され、売手は価格決定権を持たない。主観的に自己に対してどれほど高い価値を置こうとも、客観的にそのように評価されなければ、その価格はけっして高くならない。つまり、他者による価値評価がそのままその価格に直結しておりそこに反映されるというわけである。

 ホッブズの「価値」や「価格」についてのこのような考え方は、経済学の「プライステイカー」の議論と合わせて詳しくみておく必要もあると思うが、それ以上に「評価経済」(レピュテーション・エコノミー)という最近の考え方と親和的であり、古い議論だからといって決して無視できないものである。

(つづく) 

文献

*1:ホッブズは「力」を次のように定義している。「ある人の力 POWER of a Man とは、(普遍的に考えれば)、善〔利益〕だとおもわれる将来のなにものかを獲得するために、かれが現在もっている道具である。そしてそれは、本源的 Originall であるか手段的 Instrumentall である。」(Hobbes1651: 41、訳150頁)。