はじめに
今回は「内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件について」というタイトルで書きたい。
最初に断っておくが、私は仕事をしている身であるから、この事件についてきっちり書く余裕がない(なので、まずはざっくりと概要を書き上げ公開した上で、後に適宜加筆修正を施す予定である)。またこの件に関しては、すでに大学や有識者から声明が出ているので、全ての論点に言及する必要はないだろう。私なりに書いておくべきと思われることだけを取り上げる。
問題の所在
私の家にはテレビがないので、ワイドショーでどのように取り上げられているのかは知らない。が、一部の番組(『バイキング』という?)では、日本学術会議について不適切な解説が行われたという(日本学士院と混同しているとか、年金がたくさんもらえるとか…、まああれだけ優秀な人たちなんだから別に年金もらったって良いじゃんと個人的には思うのだが)。
そしてTwitterを見ていて思うのは、論点がものすごく拡散しているということ。特に日本学術会議がどのような組織で、その活動に十分意義があるのかとか、どうでも良いことに注目が集まってしまっているように思われる。問題はそこではない。
日本学術会議法というものがある。法律とは明文化された決まりごとである。これには当然、内閣総理大臣であろうと、いかなる政治家であろうと、基本的には従わなければならない。
この日本学術会議法によれば、日本学術会議の新会員は、会員の推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する、というように書いてあるそうである。そしてこれは中曽根(当時:総理大臣)の発言記録にもあるように、形式的なものであって、実質的なものとしては捉えられていないという解釈がされてきた。
内閣総理大臣には形式的な任命権しか許されておらず、実質的な任命権は許されていない。これはどういうことなのか。
日本学術会議の新会員を推薦するにあたって、誰を推薦するかというのは、この会議に属する学者である。学者というのは極めて高度な研究を行なっているのだから、同じ学者でなければ新会員に推薦すべきか否かを判断することができないはずだ。つまり、任命権の「実質的」なものとは、新会員にふさわしいか否かを判断する能力を意味する。
もし内閣総理大臣に実質的任命権まで認められているとしたら、内閣総理大臣自身が学者の研究を見極められるほど優秀であり、それによって新会員にふさわしいか否かを判断する能力を有していなければならない。だが、こういうケースは稀にしかあり得ないだろう。
今回の事件では、6人の学者を名簿から外して、他の99人を新会員として任命した。従来の法解釈に従うなら、当初内閣官邸に提出されたリストに掲載されていた105人の推薦された者を全員そのまま内閣総理大臣が新会員として任命しなければならないはずだ。
しかし今回は歴史学者や法学者、政治学者らの6人に関しては任命しなかった。このことは政府の何者かが実質的任命権を行使したことを意味する。しかし、日本学術会議法における内閣総理大臣による任命は形式的なものだと解釈されてきたのだから、実質的任命権を行使することは違法である。
政府はこれに対して「適法」だと述べているのだから、非常にたちが悪い。政府が違法を適法と言いくるめている言い方は、任命権という法は「義務的なものではない」というものである。権利に対して義務を持ち出している。
だが、今回の内閣総理大臣による「日本学術会議」の新会員の任命は、内閣総理大臣に対して新会員を推薦に基づいて任命する権利までは認められているものの、新会員を選択する権利までは認められていないと解されるべきである。むしろ任命する権利はそれを行う義務とセットである。
総理官邸に「日本学術会議」の新会員の人選を許容するということは、この法律の恣意的な運用を許容することを意味する。権力者による法の恣意的運用は、権力の濫用につながる。非常に危険である。
私の見解
私の基本的な見解についてはすでにTwitterで次のように述べておいた通りである。
今問題になっているのは、政府側による日本学術会議法の恣意的運用が法(学)的に許容され得るのかということです。そしてこれは当然ながら許容されるべきではない。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月2日
これ、政府側に(従来の法解釈を歪めた上での)恣意的な運用を法(学)的に許容してしまったら、法のこうした恣意的運用が他分野にも及んでくる可能性があるということで、無視し難い。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月2日
日本学術会議の件は、菅義偉がこれまでに総理官邸の意向に従わない官僚を左遷するなどして幾度も行使してきた人事権の濫用を、総理大臣による日本学術会議の新会員の任命にも拡大解釈して適用できると思い込んだが、任命不履行の合理的理由を提示しないまま明らかな違法行為を行なっているということ。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月3日
任命されなかった6名はすべて人文系の学者なので、「人文学を蔑ろにするぞ」という政権側の強いメッセージを国内外に発信しているとも解される。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月3日
人事権を掌握されている官僚はもはや総理官邸の意向を繰り返すことしかできないから、直接利害関係のない外部の人間が代わりに代弁してあげることしかできないだろう。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月3日
今回の日本学術会議の件は、「立憲君主制」においても大きな問題となり得るような法解釈の問題を含んでいる故、デモクラシー(これ自体一つの政体に過ぎない)の問題に解消されてはならない。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月6日
だが今回の件が、日本学術会議が国民一般に関係がないから、内閣総理大臣による任命不履行の問題も国民にとって関係がないかというと、そうではない。国民は投票により政治的権利を有するが故に、政府による不法行為に対して国民が口を出すのは当然の権利(ルソーのいう意味でのシトワイヤンとして)。
— 荒川幸也│Sakiya ARAKAWA (@hegelschen) 2020年10月6日
以下補足。
今回の事件が「デモクラシーの問題に解消されてはならない」というTweetは、三浦瑠璃さんのTweetに反応したものである。
日本学術会議は独立性が高いが政府の一機関です。宮本徹さんは「民主主義を守る戦い」とし、学術の中身に関心のない人を動員していますが、すると右派が(既に)参戦し、学者や学術会議のバッシングを始める。その戦いではおそらく宮本さんは負けることになります。だから発言には合理性がないのです。 https://t.co/3RQOhSA9uO
— 三浦瑠麗 Lully MIURA (@lullymiura) 2020年10月4日
三浦瑠璃さんがこの事件を「民主主義の問題だとは思っておりません」と述べている点は非常に慧眼であると私は思う。三浦さんはおそらく、この件を民主主義の問題として捉えてしまうとポピュリズムは日本学術会議の存在を許容しないだろうから、結果的に政府による任命拒否を支持することになるだろうという結末を見通しているように見える。だから、民主主義の問題に解消してしまうのは悪手なのである。
私は三浦さんとは別の意味で、この件を民主主義の問題に解消してはならないと考えている。この事件はきわめて「立憲君主制」的な問題なのである。「立憲君主制とは何か」という点についてはヘーゲルの『権利の哲学の基本線』(G.W.F. Hegel, Grundlinien der Philosophie des Rechts, 1820)、いわゆるヘーゲルの『法の哲学』を参照されたい。ヘーゲルの政治国家論では、君主権力からその恣意性がピンからキリまで剥奪されている。君主権力に恣意的な決定権を与えてしまうことがどれだけ恐ろしいことかをヘーゲルはよく認識していたと思うし、また同時に民衆に恣意的な決定権を与えることの恐ろしさもヘーゲルは認識していた。ヘーゲルにとってはどちらも理性的国家からは程遠く、現実的ではなかったのである。
現下の日本は民主主義国家だと誰もが思い込んでいるが、実は構造的には立憲君主制である(堅田2015)。とはいえ、天皇制というローカルな習俗性と西欧的な民主主義とのハイブリッドな意味での立憲君主制であるから、立憲君主制の特殊的な形態でもある。天皇の国璽行為が立憲君主制の一部をなしている。GHQのテコ入れにより、日本国憲法では天皇からはその恣意的な決定権が根こそぎ剥奪されている。つまり国家における「形式的なもの」の意味は、恣意的な決定権の剥奪にあると言っても過言ではない。
今回の事件が天皇による内閣総理大臣の任命になぞらえて議論される向きもあった。今回のケースがまかり通れば、天皇が内閣総理大臣の任命を拒否できることになってしまうのではないかというのである。両者のケースを直ちに混合すべきではないという見方が一部の法律家から出ているが、内閣総理大臣の天皇に対する関係であれ、日本学術会議の内閣総理大臣に対する関係であれ、いずれのケースにしても恣意的な決定権を任命者自身に許容するか剥奪するかという観点から整理すれば、全く無関係であるとも言い切れないであろう。
また日本学術会議が国民にとって関係があるか云々というTweetは、西田亮介さんのTweetに反応したものである。
なんで、いま、みんな日本学術会議に関心を持っているの?新政権のツッコミどころだからというだけでしょう。もともとほとんど関係ないうえに興味もなかったじゃない。ぼくだってそうで、たぶん1、2回ほど部会のシンポジウムかなにかで話したことあるけれど、はっきり言えば関係ない。
— 西田亮介/Ryosuke Nishida (@Ryosuke_Nishida) 2020年10月5日
西田亮介さんのこのTweetは一時炎上気味であったが、今はだいぶ収束したようである。このTweetで、政権の問題を日本学術会議の組織の問題にすり替えていることに対して、西田さんは疑問を呈しているのだと思う。この文章を冷静に読めば、たしかにその通りなのであるが、煽り度が非常に高いクオリティになっている。
ワイドショーで日本学術会議のあり方を疑問視したり、この組織そのものに関心を向けた議論は、今回の問題からズレていると思う。税金を使っているとか、中国に人を送っているとか、それは今回の事件とは別の問題であって、もちろん大いに議論してもらって構わない。だが、その場合には、今回の内閣総理大臣および総理官邸の問題が法の解釈および運用の問題であることが理解されていないか、筋の悪い連中が噛み付いているような印象を受ける。
では、日本学術会議が国民一般にとって無関係だから、今回の事件も無関係だということには当然ならない。ルソーは『社会契約論』の冒頭で次のように述べている。
自由な国家の市民として生まれ、しかも主権者の一員として、私の発言が公けの政治に、いかにわずかの力しかもちえないにせよ、投票権をもつということだけで、わたしは政治研究の義務を十分課せられるのである。
菅義偉(現:内閣総理大臣・自由民主党総裁)は、我々国民の投票によって選ばれた政治家である。我々国民はルソーのいう「主権者の一員として…投票券をもつということだけで」、今回の内閣総理大臣による「日本学術会議」新会員任命不履行事件についてについて研究し論ずる義務を十分課せられているといえるのである。