まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(4)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

「内在的価値」の行方
f:id:sakiya1989:20200924131623j:plainf:id:sakiya1989:20200924131735j:plain

 身体の諸欲求を満たし、生活を支える諸事物は、実在的で自然的な価値を有していると勘定されてもよいであろう。それらの諸事物はいつでもどこでも価値の属するものである。そしてもしおのれ自身のうちに内在的価値を有している諸事物があるならば、それらは畜牛とトウモロコシであろう。故に、賎民は家畜を数え上げるPauperis est numerare pecus〕という諺によると、古代の時代には富の計算は畜牛の数によって行われていたのである。

(Barbon1696: 3-4)

ここから「内在的価値 Intrinsick Value 」をキーワードとした議論に軸足が移っていく。

 Pauperis を「賎民」と訳したが、山下太郎によれば「家畜を数えるのは貧乏人の性分である Pauperis est numerare pecus 」という一文は、オウィディウス『変身物語』(Ovidius, Metamorphoses, Lib. ⅩⅢ: 824)に認められる*1

f:id:sakiya1989:20200924133146j:plain
 金と銀には実在的な内在的価値があり、それらはひとえに富や財宝と見做されるべきだ、という意見もある。

(Barbon1696: 4)

ここで取り上げられている「意見 opinion 」は、バーボン自身のものではない。金と銀とはいわば奢侈品であり、 先に考察された「身体の諸欲求を満たし、生活を支える諸物」とは異なり、むしろ「精神の諸欲求」を満たすものであるからである。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:山下太郎のラテン語入門「Pauperis est numerare pecus.」(2014年3月30日)。オウィディウス『変身物語』の新訳が、ちょうど昨年から今年にかけて刊行されている(オウィディウス2020)。

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(3)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

ひとびとは何によって格差をつくるのか
f:id:sakiya1989:20200923174426j:plain

 これら二つの一般的な諸欲求を満たすことで、あらゆる種類の諸事物はある価値を有している。だが、それらの諸事物の中でも最も多くのものは、精神の諸欲求を満たすことでその価値を有している。最も価値のある諸事物は、あらゆる種類の高級カーテン・金・銀・真珠・ダイヤモンド、そしてあらゆる種類の宝石などのように、生活の華美を飾るために使用される。それらの諸事物は、装飾したり着飾るために使用される。それらは富の徽章バッジであり、それらはひとびとの間で選好の格差ディスティンクションをつくるのに役立つ。

(Barbon1969: 3)

バーボンによれば、 欲求には「身体の諸欲求」と「精神の諸欲求」とがあり、これらの欲求を満たす物はそのほとんどが「精神の諸欲求」を満たすものである。

 「あらゆる種類の高級カーテン・金・銀・真珠・ダイヤモンド、そしてあらゆる種類の宝石」といったものは、近代経済学では「奢侈品 luxury goods 」と呼ばれるものである。経済学では、「正規財 normal goods 」は「需要の所得弾力性 income elasticity of demand 」におうじて「奢侈品 luxury goods 」と「必需品 necessity goods 」の二つに区別される。

 バーボンの考察は、こうした近代経済学の観点とは異なり、アクセサリーをそのシンボリックな効果から理解するのに役立つ。アクセサリーは個人の特徴を引き立てるために身に着けるものである。アクセサリーにはその人の「選好 Preference 」が反映されており、それが他人との「違い distinction 」をなしている。バーボン自身は論じていないが、身に着けるアクセサリーによるこうした「違い」は、富者と貧者といういわば〈階級〉間の「格差 distinction 」を示すものでもある*1

f:id:sakiya1989:20200923210813j:plain

 これら二つの一般的な諸欲求は、人類が生まれつき持っているものであり、人類にとってごく自然なものであるため、人類は自らの享楽するものよりも、むしろ自らの欲するものによって、よりいっそう区別される。貧しい男は一ポンド、金持ちの男は百ポンド、他の者たちは数千ポンド、或る君主は、数千万ポンドを欲する。欲望と欲求は富とともに増大する。そして、そこからいえるのは、満足した男こそが唯一の富豪の男リッチ・マンである、なぜなら彼は〔これ以上〕何も欲しくないのだから、ということである。

(Barbon1696: 3)

上では Man を敢えて「男 Man 」と訳した。今日のジェンダー学の観点から言えば、「人 Man 」といってもその背後にはやはり「男 Man 」が観念されているであろうと思われるからである。

 「満足した男こそが唯一の富豪の男である」という逆説は、一見すると突拍子もないものであるように思われる。が、貧者が富者になったところで「欲望と欲求は富とともに増大する」のであるから、欲望や欲求を満足させるためには、より多くの物が必要となってくる。そうして肥大化した欲望や欲求を満足させるほどに十分な環境にいるならば、そのときこそ彼は本当に「富豪の男 Rich Man 」だといえるわけである。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:こうした「格差 distinction 」を〈趣味〉の観点から考察したものとしてはブルデュー2020をみよ。

「価値」についての覚書

目次

はじめに

 以下では、これまでに「価値」という概念がどのように論じられてきたのかを、トマス・ホッブズアダム・スミスカール・マルクスらの著作を通してみていきたいと思う。

ホッブズの「価値」論

 ホッブズは『リヴァイアサン』の中で「価値」について次のように述べている。

《値うち》ある人の価値 Value すなわち値うち WORTH は、他のすべてのものごとについてと同様に、かれの価格であり、いいかえれば、かれの力*1の使用に対して与えられる額であり、したがって絶対的なものではなくて、相手の必要と判断に依存するものである。兵士たちの有能な指揮者は、現在のあるいは切迫した戦争のときには、おおきな価格をもつが、平和においては、そうではない。学問があり清廉な裁判官は、平和のときには、おおきな値うちがあるが、戦争においては、それほどではない。そして、他のものごとについてと同様に、人間についても、売手ではなく買手が、その価格を決定する。すなわち、ある人が(たいていの人がするように)自分を、できるだけたかい価値で評価するとしても、その真実の価値は、他の人びとによって評価されるところを、こえないのである。(Hobbes1651: 42、訳152〜153頁)

ここでホッブズ人間の「価値」について論じているのであって、物の「価値」について論じているのではない。が、人間の「価値」は物の「価値」と同様に扱われるという点をホッブズは鋭く指摘している。ホッブズの『リヴァイアサン』には社会契約論において有名な自然状態と市民状態の区分があるが、この区分と同様に、戦争状態と平和状態において人の「価格」もまた変動するとホッブズはいう。なぜなら状況に応じてその場面で求められる有能さが変わってくるからである。

 ここでの論点のひとつは「価格はいかにして決定されるのか」ということである。ホッブズによれば、価格は買手によって決定され、売手は価格決定権を持たない。主観的に自己に対してどれほど高い価値を置こうとも、客観的にそのように評価されなければ、その価格はけっして高くならない。つまり、他者による価値評価がそのままその価格に直結しておりそこに反映されるというわけである。

 ホッブズの「価値」や「価格」についてのこのような考え方は、経済学の「プライステイカー」の議論と合わせて詳しくみておく必要もあると思うが、それ以上に「評価経済」(レピュテーション・エコノミー)という最近の考え方と親和的であり、古い議論だからといって決して無視できないものである。

(つづく) 

文献

*1:ホッブズは「力」を次のように定義している。「ある人の力 POWER of a Man とは、(普遍的に考えれば)、善〔利益〕だとおもわれる将来のなにものかを獲得するために、かれが現在もっている道具である。そしてそれは、本源的 Originall であるか手段的 Instrumentall である。」(Hobbes1651: 41、訳150頁)。

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(2)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(承前)

富、および諸事物の価値について(承前)

f:id:sakiya1989:20200916235357j:plain

 それによってありとあらゆる諸事物が価値を持つところの、二つの一般的な〈使用〉がある。二つの一般的な〈使用〉とは、身体の諸欲求を満たすのに役立つか、または精神の諸欲求を満たすのに役に立つか、そのいずれかである。

(Barbon1696: 2)

ここでバーボンは「身体 Body 」と「精神 Mind 」といういわば心身二元論の立場を採用しつつ、物の「価値 Value 」の源泉を「ふたつの一般的な使用」の観点から考察しようとしている。以下でバーボンは「身体の諸欲求」と「精神の諸欲求」について述べる。

身体の諸欲求
f:id:sakiya1989:20200917000224j:plain

 身体の諸欲求を満たすための必要性から価値を有している諸事物は、あらゆる種類の食べ物や自然物のように、生活を支えるのに役立つようなすべての諸事物である。

(Barbon1696: 2)

Life は多義的な語であるため、これを「生命」や「生活」とするか、「生」とするか悩むところである。「身体の諸欲求」は基本的には人間が動物として「生命 Life 」を維持するために必要な活動に関わるものだと考えられる。「生活」とは基本的に衣食住に関わるものであるから、「生活を支えるのに役立つ」ものは様々な物が想起される。

精神の諸欲求
f:id:sakiya1989:20200912010450j:plainf:id:sakiya1989:20200917000942j:plain

 精神の諸欲求を満たすのに役立つことでその価値を有している諸事物は、欲望を充足するようなすべての諸事物であり、(欲望〔Desire〕は欲求〔Want〕を含意している。欲望は精神の食欲であり、身体にとっての飢えと同様に自然なものである)そのような諸事物は、生活の安寧や喜悦や華美に貢献することで、精神を満足させるのに役立つ。

(Barbon1696: 2-3. 下線引用者)

ここでバーボンは「欲望 Desire 」と「欲求 Want 」を区別している。「精神の諸欲求」は「欲望」と呼んだ方が適切だということなのだろう。

 だが注意しなければならないのは、「身体の諸欲求」が自然的であるとともに、「精神の諸欲求」=「欲望」もまた「自然的」であるという点である。つまり「自然物 Physick 」によって満たされる「身体の諸欲求」の自然性に対抗するものとして「精神の欲求」を対置してしまいそうになるが、バーボン的にはどちらも「自然的」である。だからこそバーボンは「欲望」を「精神の食欲 Appetite 」にたとえ、「欲望は欲求〔の自然性〕を含意している」というのである。

 ちなみにマルクスは『資本論』の注(Marx1867: 1)で、上の下線部の箇所から引用している*1

sakiya1989.hatenablog.com

文献

〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(1)

目次

はじめに

 以下ではニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究:ロック氏の貨幣の価値の引き上げについての考察に答えて』(Nicholas Barbon, A DISCOURSE Concerning Coining the New Money lighter, IN Answer to Mr. Lock's Confiderations about raising the Value of Money, London, 1696. 以下の画像は京都大学貴重資料デジタルアーカイブ, 京都大学法学研究科所蔵, 2018年より部分的に切り出し)の翻訳を試みる。

f:id:sakiya1989:20200924125851j:plain

Barbon1696(京都大学法学研究科所蔵), 京都大学貴重資料デジタルアーカイブより)

 マルクスは『資本論』の注の中でバーボンのこの著作から何度か引用している。またケインズシュンペーターのような経済学者たちもバーボンから影響を受けたとされる。この点で、バーボンの著作は経済学史において重要な役割を果たしているといえるが、これまで邦訳は『交易論』(東京大学出版会、1966年)のみ出版されている。

 訳者はドイツ語やフランス語、ラテン語など、いくつかの言語を学んできたが、それはもともと英語が苦手だったからである。中学から高校にかけて勉強をサボり、大学受験を期に一念発起して独学しただけの英語力に過ぎない。大学から大学院までの間にも英語で十分な指導を受けた試しがない。それゆえ、下に訳出する翻訳は、訳者がドイツ語やラテン語の学習を経由して得た、素人のそれであることをあらかじめ断っておく。

 この度、翻訳にあたってはGoogle翻訳とDeepL翻訳を大いに活用している。まず訳者が下訳を作り、それから原文をGoogle翻訳とDeepL翻訳にかけて比較対照し、文法的に読みやすい訳文へと総合した。これらの機械翻訳はまだまだ完璧とはいえない。Google翻訳は対応言語が多いが、訳文の完成度は十分とは決して言えない。たほうDeepL翻訳は対応言語がGoogleのそれと比較すると少ないが、深層学習のおかげで訳文がこなれていることがある。いずれにせよ、「三人寄れば文殊の知恵」の諺通り、一人で訳文を推敲するよりは機械翻訳の訳文を参考にした方が時間的にも効率的である。仕事の休憩の合間にでも翻訳を進めてみたいと思う。

追記

 画像(Barbon1696)の利用にあたっては、令和2年12月9日付で訳者である私が京都大学法学部に「特別利用願」を申請し、令和3年2月1日付で山本敬三(京都大学大学院法学研究科長、敬称略)による承認の下、「特別利用許可」を頂戴した。書類申請の際にはメールにて京都大学法学部図書室の辰野さんのお世話になった。申請に携わっていただいた皆様に、あらためて感謝の意をここに記す。(訳者)

ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』

富、および諸事物の価値について

f:id:sakiya1989:20200915235332j:plain

 ロック氏の著作における貨幣の価値の引き上げに対する議論はすべて、〈銀貨には内在的価値があり、それは共通の同意が置かれた価格や評価額であり、それが他のあらゆる諸事物の価値の尺度となっている〉という、この単純な仮定から導出されている。もしそれが真実ではなかったとしたら、彼の帰結はすべて誤りであるに違いない。

(Barbon1696: 1)

本書のサブタイトルにあるように、この著作はバーボン(1640-1698)の同時代人であるジョン・ロック(1632-1704)の著作の議論を受けたものである*1

f:id:sakiya1989:20200916001731j:plain

 そして、彼がそう述べていることを証明するためには、〔RICHES〕一般について論じ、諸事物の価値がどのように生じるかを示す必要があるだろう。

(Barbon1696: 2)

「富 RICHES 」がここでのキーワードである。アダム・スミス国富論*2の邦訳書では、 Wealth には「富」、Opulence には「富裕」が訳語として採用されている(スミス2020)。 Wealth と Riches の違いについて、沖公祐は次のように述べている。

スミスが富を示すのに用いた wealth は、 well (善い)が名詞化したものであり、元々は善いものという抽象的な意味の言葉である。つまり、ウェルスは富の遠回しな言い方なのである。富を指すより直接的な英語としては riches があり、重商主義者たちはむしろこちらの方を好んだ。富を表すドイツ語は Reichtum 、フランス語は richesse であるが、いずれも wealth ではなく、 riches に対応する言葉である。

(沖2019: 46)

「富 Riches 」という語が出てきた場合、我々は重商主義の議論を想起しなければならないであろう。そのさい、バーボンはどのように位置付けられるのだろうか。

f:id:sakiya1989:20200916004440j:plain

 〈〉とは、大いなる価値の属するようなありとあらゆる諸事物のことである。

 〈価値〉とは、諸事物の価格と理解されねばならない。すなわち、売れるものにはそれだけの値打ちがある。古い格言によれば、〔どんな物も〕〈売却されるだけの価値がある〉〔Valet quantum vendi potest〕。

 あらゆる諸事物の価値は、その諸事物の使用〔Use〕から生じる。

 何らの使用も属さない諸事物には、何らの価値も属することがない。英語のフレーズにあるように、〈それらは何の役にも立たない〉〔They are good for nothing〕。

(Barbon1696: 2)

バーボンは「富 Reiches 」を「大いなる価値の属するようなありとあらゆる諸事物」として理解している。こうした理解と比べて、ホッブズが「富」を「力」として概念把握していたことはやはり注目に値する。

"Valet quantum vendi potest."というラテン語について文法的に整理しておこう。

  • valet:「〜の価値がある」という意味をもつ"valeo"の直接法・三人称単数・現在。
  • quantum:「どれぐらいの」という意味を持つ"quantus"の中性・単数・対格。
  • vendi:「売る、売却する」と言う意味を持つ"vendo"の不定法・受動態・現在。
  • potest:「〜できる」という意味を持つ"possum"の直接法・三人称単数・現在。

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:Locke1692, 1695. まだ未確認だが、これらの邦訳はロック1978に収められているかもしれない。

*2:国富論』初版は Smith1776a;1776b;1776c であり、その第五版は Smith1789a;1789b;1789c である。

マルクス『資本論』覚書(6)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

富の社会的形式と素材的内容,あるいは商品と使用価値

(1)ドイツ語初版

 ある物の人間的生活にとっての有用性は,その物を使用価値にする⁴.つまり我々は,鉄,小麦,ダイヤモンドなどという有用な物すなわち商品体を,使用価値,財,品物と呼ぶ.使用価値を考察する際には,一ダースの時計とか一エレのリンネルとか一トンの鉄などのような,その量的な規定性が常に前提とされている.諸々の商品の諸々の使用価値は,一つの独自な学科である商品学の材料を提供する⁵.諸々の使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される.諸々の使用価値は,富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく,富の素材的な内容をなしている.我々によって考察されねばならない社会的形式においては,諸々の使用価値は同時に交換価値の素材的な担い手をなしている.

(Marx1867: 2)

(2)ドイツ語第二版

 ある物の有用性は,その物を使用価値にする⁴.しかし,この有用性は漠然と宙に浮かんでいるのではない.この有用性は,商品体の諸特性によって条件づけられているので,商品体なしには存在しない.それゆえ,鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが使用価値または財である.商品体のこのような性格は,その使用特性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない.使用価値を考察する際には,一ダースの時計とか一エレの亜麻布とか一トンの鉄などのような,その量的な規定性が常に前提とされている.諸々の商品の諸々の使用価値は,一つの独自な学科である商品学の材料を提供する⁵.諸々の使用価値は,ただ使用または消費によってのみ実現される.諸々の使用価値は,富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく,富の素材的な内容をなしている.我々によって考察されねばならない社会形式においては,諸々の使用価値は同時に,交換価値の素材的な担い手をなしている.

(Marx1872a: 10-11,下線引用者)

(3)フランス語

 ある物の有用性は,その物を使用価値にする¹.しかし,この有用性は曖昧模糊としたものではない.この有用性は,商品体の諸属性によって決まっており,商品体なしには存在しない.鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものは結果的に使用価値である.商品体にこのような性格を与えるのは,人間がその有用な性質を取得するために必要な労働の多寡ではない.使用価値を問題とする場合には,一ダースの時計とか一メートルのリンネルとか一トンの鉄などのような,ある特定の量がつねに前提とされている.諸々の商品の諸々の使用価値は,ある特殊な知識・学問・商業的因習の原資を提供する².諸々の使用価値は,使用または消費においてのみ実現される.諸々の使用価値は,富の社会的形式がどんなものであるかにかかわりなく,富の素材をなしている.我々が検討しなけれればならない社会においては,諸々の使用価値は同時に,交換価値の素材的な担い手である.

(Marx1872b: 13-14)

(4)ドイツ語第三版

 ある一つの物の有用性は,その物を使用価値にする⁴.しかし,この有用性は空中に浮いているのではない.この有用性は,商品体の諸属性に制約されているので,商品体なしには存在しない.それゆえ,鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが,使用価値または財なのである.商品体のこのような性格は,その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない.使用価値の考察にさいしては,つねに,一ダースの時計とか一エレのリンネルとか一トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提される.いろいろな商品のいろいろな使用価値は,一つの独自な学科である商品学の材料を提供する⁵.使用価値は,ただ使用または消費によってのみ実現される.使用価値は,富の社会的形式がどんなものであるかにかかわりなく,富の素材的な内容をなしている.われわれが考察しようとする社会形式にあっては,それは同時に素材的な担い手になっている——交換価値の.

(Marx1883: 2-3,岡崎訳73頁)

このパラグラフは,マルクスによって第二版で加筆修正が加えてられていることがわかる.語の強調は第二版からは全く消えてしまっている.第二版で加筆修正された部分は下線で示しておいた.

 ここでマルクスは富をその〈社会的形式〉と〈素材的内容〉の側面から区別している.先行するパラグラフで「個別の商品はそのような社会の富の基本形式として現象する」と述べられている通り,富の〈社会的形式〉をとって現われた物が「商品」である.

 「諸々の使用価値は,富の社会的な形式がどんなものであるかにかかわりなく,富の素材的な内容をなしている」.つまり,「富の社会的形式」(=商品)が鉄であろうと小麦であろうとダイヤモンドであろうと,それぞれの商品の使用価値が富の〈素材的内容〉をなしており,その〈素材的内容〉の具体性は商品ごとに異なっている.

 このパラグラフで説明されているのは,主に「商品」と「使用価値」との関係についてである.しかもその点が第二版以降ではより詳しく説明されているのだが,それはおそらくマルクス自身が「商品体 Waarenkörper」についてもう少し詳しく書かねばならないと考えたからであろう.「商品体」と聞くと何か変な印象を持つかもしれないが,「体 Körper」はラテン語で言えばcorpusであり,これは要するに〈商品とは物体として具象的な形を有している〉ということである.この物体性こそが,「この有用性は,商品体の諸属性に制約されているので,商品体なしには存在しない」といわれる所以であり,そして同時に使用価値がそれに投下された労働の大小と関係がないといわれる所以である.

 「使用価値」と「交換価値」という語が『資本論』の本文の中で出てくるのは,このパラグラフが初めてであるが,「使用価値」と「交換価値」という用語それ自体は,マルクスの独創ではない.アダム・スミスは『国富論』の中で「価値」について次のように述べている.

価値VALUE〕という言葉には二つの異なった意味があること,すなわち,ある特定のものの効用をさす時と,ものを所有しているがゆえに生じる他財を購買する力をさす時がある,ということに注意しなければならない.前者を「使用価値」,後者を「交換価値」と呼ぶことができる.

(Smith1789: 42,高訳63〜64頁)

十七世紀までの英語圏に見られる〈価値〉の用語法,worthとvalue

「使用価値」の直後に付された原注4の中でマルクスは次のように述べている.

(1)ドイツ語初版

 ⁴)「およそ物の自然的価値は,いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』,1691年,『著作集』,ロンドン,1777年版,第二巻,p. 28).十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に “Worth” を,交換価値Value を用いているのが見いだされるのであるが,それは,まったく,直接的なことがらをゲルマン語で,省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神によるものである.

(Marx1867: 3,岡崎訳73頁)

(2)ドイツ語第二版

 ⁴)「およそ物の自然的価値は,いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』,1691年,『著作集』,ロンドン,1777年版,第二巻,p. 28).十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に “Worth” を,交換価値に “Value” を用いているのが見いだされるのであるが,それは,まったく,即物的なことがらをゲルマン語で,省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神によるものである.

(Marx1872a: 10,岡崎訳73頁)

(3)フランス語版

1.「およそ物の自然的価値は,いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』1691年)十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値にWorthという語を,交換価値にValueという語を用いているのが見いだされるのだが,これは,即物的ことがらをゲルマン語で,省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神に倣っている.

(Marx 1872b: 14)

(4)ドイツ語第三版

⁴)「およそ物の自然的価値は,いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつとかいうその適性にある.」(ジョン・ロック『利子引き下げの結果の諸考察』,1691年,『著作集』,ロンドン,1777年版,第二巻,p. 28).十七世紀にはまだしばしばイギリスの著述家たちのあいだでは使用価値に “Worth” を,交換価値に “Value” を用いているのが見いだされるのであるが,それは,まったく,即物的なことがらをゲルマン語で,省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神によるものである.

(Marx1883: 2,岡崎訳73頁)

ここでジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)の「自然的価値 natural worth」という語は,ちょうど「使用価値」の意味で用いられている.マルクスはこれを「即物的なことがらをゲルマン語で」表現している一例として引用している.というのも,「自然的価値」が「いろいろな欲望を満足させるとか人間生活の便宜に役だつ」ということは「即物的なことがら」に該当するからである.

 以下にマルクスが参照した『ジョン・ロック著作集』第2巻から該当箇所を引用しておく*1

一,ある物の内在的自然的価値は,人間生活の必要をみたすか便益に役立つかするところの適性に存する.それがわれわれの生存に必要であればあるほど,またそれがわれわれの福祉に貢献すればするほど,その物の値うちはいっそう大きい.しかし

二,ある物の一定量を常に他の物の一定量と等価値にさせるような固定的な内在的自然的価値はどんな物にも存在しない.

(Locke1777: 28,田中・竹本訳64頁)

しかしマルクスの時代はもはや十七世紀の英語圏ではない.ドイツ語では「使用価値 Gebrauchswerth」にも「交換価値 Tauschwerth」にもどちらも共通して "-werth" が用いられている.ドイツ語のWerthは英語のworthに該当する.つまりドイツ語では,十七世紀イングランドに看取されるworthとvalueのような用法の区別が存在しないということになろう.

worthとvalueの語源学:ゲルマン語派とロマンス語

 マルクスのいう「即物的なことがらをゲルマン語で,省察したことがらをロマンス語で表現することを好む言語の精神」というものを,我々は一体どのように適切に理解したら良いのだろうか.そもそもゲルマン語とロマンス語はどのように異なっているのであろうか.

 この点を明らかにすべく,以下で我々はworthとvalueの語源について見ていく*2

worthの語源

中英語 worth 又は wurth < 古英語 weorþ < ゲルマン祖語 *werþaz

worth - ウィクショナリー日本語版

まずworthの語源を辿ると,古くはインド・ヨーロッパ祖語(Proto‐Indo‐European, PIE)において *wert- (「向かって,転じて to turn」の意)という表記が再建され,これから派生したとされる前ゲルマン祖語(Pre-Proto-Germanic, Pre-PGmc)の *wértos が再建され,さらにこれから派生したゲルマン祖語(Proto-Germanic, PGmc)の *werþaz (形容詞「価値ある worthy, valuable 」の意)が再建されている.これが低地ドイツ語ではweert(形容詞),ドイツ語ではwert, Wertとなった.一方で古英語(Old English,450年頃から1150年頃まで)ではweorþとなり,中英語(Middle English, 1066年から15世紀後半頃まで)でようやくworthへと至った.

 次にvalueの語源を辿ると,古くは印欧祖語の *walh₂- (「強くある to be strong 」の意)という表記が再建され,これからラテン語valerevaleoの現在能動不定詞,「強くある,価値がある to be strong, be worth 」の意)となり,そこから古フランス語(ancien français, Old French)のvaluevaloirの過去分詞の女性形)となり,中英語においてvalew, valueへと至った.

 ラテン語の口語である俗ラテン語(sermo vulgaris, Vulgar Latin)に起源を持つ言語の総称をロマンス諸語(Linguae Romanicae, Romance languages)という*3高橋英光(1952-)によれば,

ラテン語とはインド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属し,最初はラチウム地方だけで話されていたがローマの発展とともにその国語としてヨーロッパとその周辺に広まった.紀元前1世紀には洗練された文章語をもつ古典ラテン語ができて中世,近世の学術語およびローマ教会の典礼用語としてヨーロッパ文化の中心的言語となった.一方で民衆が使うラテン語俗ラテン語(Vulgar Latin)と呼ばれ,それが地方色を帯びて分岐して今日のロマンス語諸語(フランス語,イタリア語,スペイン語など)となった.

(高橋2020:21)

 以上の点を踏まえると,マルクスは,ゲルマン語派をその語源とするworthのことを「即物的なものごとをゲルマン語で」表現したものだと述べ,ロマンス語派をその語源とするvalueのことを「省察したものごとをロマンス語で」表現したものだと述べたのだと考えられる.

 では「即物的ものごと unmitterbar Sache 」と「省察したものごと reflektirte Sache 」を表現するにあたって,ゲルマン語派とロマンス語派を区別して用いるということは,一体何を意味するのだろうか.これは筆者の推測に過ぎないのだが,近代にはラテン語はもはや民衆の読める文字ではなくなっていたことを思い返すと,ゲルマン語の言葉が粗野なイメージを抱かれ,ロマンス語の言葉は自由学芸を修めた教養ある人々や聖職者が用いる観念的な言語というイメージを抱かれていたと言えないだろうか.そしてこのことをマルクスは「それは,まったく,直接的なことがら〔目に見えるもの〕を〔粗野な〕ゲルマン語で表現し・反省されたことがら〔観念的なことがら〕を〔洗練された〕ロマンス語〔教養人の用いる言語〕で表現することを好む言語〔英語〕の精神によるものである」とアイロニックに述べたのではないだろうか.

市民社会における〈擬制

 マルクスは「諸々の商品の諸々の使用価値は,一つの独自な学科である商品学*4の材料を提供する」という箇所に次のような注を付けている.

(1)ドイツ語初版

 ⁵)市民社会では、各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配的である。

(Marx1867: 2,岡崎訳73頁)

(2)ドイツ語第二版

 ⁵)市民社会では,各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識をもっているという擬制〔fictio juris〕が支配的である.

(Marx1872a: 10,岡崎訳73頁)

(3)フランス語版

 2.市民社会では「何人も法律を知らないとはみなされない」.——つまり経済的な擬制fictio juris〕のもとに,すべての買い手は商品の百科全書的な知識を有しているとみなされている.

(Marx1872b: 14)

(4)ドイツ語第三版

 ⁵)市民社会では,各人は商品の買い手として百科全書的な商品知識を有しているという擬制〔fictio juris〕が支配的である.

(Marx1883: 2,岡崎訳73頁)

この箇所を石崎は次のように解釈している.

マルクスの記述は,市民社会の全構成員が商品知識をもっていること,さらに商品知識をもっていなければならないこと,さらに商品知識をもっていなければならないこと,しかしながら完全な商品知識をもちえなくなってしまっている現実,しかし商品知識をもっていると仮定しなければ売買契約という対等の立場での契約を結べないこと,したがって,実際には商品知識をもっていなくても,商品知識をもっていると法的にも認めざるをえないこと,その結果,商品を購買してしまった後には,基本的にはすべての責任が購買者に転化されてしまうという社会が市民社会であるということを示している.

(石崎1981:792)

今日ではもはや「すべての責任が購買者に転化されてしまう」ことはなく,例えば平成6年(1995年)に製造物責任法(PL法)が施行されている.商品に欠陥があることが認められた場合に製造元・販売元がそれを無料で回収・修理するものとしてリコール(Recall)があり,一定の条件のもとで契約を撤回することができるクーリングオフ(cooling-off period)制度がある.これらの制度はマルクスの時代にはまだ無かった.

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:ロックのこの著作について詳しくは種瀬1951を参照されたい.

*2:以下の語源についてはウィクショナリーWiktionary)各国語版の記述を参考にした.

*3:「現在,ロマンス語とされるものには,国家単位として,フランス語(F)・スペイン語(S)・ポルトガル語(P)・イタリア語(I)・ルーマニア語(R)がある.これらのロマンス語は,各ロマンス語で多くの共通する点が見られるが,系統的には,イタリアにおけるラ・スペツィア=リミニ線(Linea La Spazia-Rimini)で示される北西と南東部分で二分し,北西に当たる北イタリア諸方言・フランス・スペイン・ポルトガルを西ロマンス語,南東に当たる中南イタリア諸方言・ルーマニアを東ロマンス語と大きく分けることが可能である.この西ロマンス語に属するフランス語語彙が,1066年のノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England)を期に,古英語の中に大量に流入していくわけであるが,この流入したフランス語にはもともとゲルマン語起源とする語彙も含まれていることになる.」(上野2016:17).

*4:「商品学(Warenkunde)が一つの学問ないしは学科体系として商取引学体系から独立したのは,Johan Bukmannの商品学序論(Vorbereitung zur Warenkunde oder zur Kenntniss der Vornehmsten ausländischen Waren 1739年)をもってなすと考えられている.」(岩下1969:929).

マルクス『資本論』覚書(5)

目次

sakiya1989.hatenablog.com

マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

質と量という有用な事物の二側面

(1)ドイツ語初版

 どんな有用な事物も,鉄や紙等のように二重の観点から,つまりに従って考察される.そうした事物はいずれも,数多くの属性からなる一つの総体であり,だから様々な側面からして有用であることがあり得る.こうした様々な側面及びそこから物の多種多様な使用法を発見することは歴史的行為である³.有用な事物のを測定するための社会的尺度を見いだすこともまたそうである.商品尺度の多様性は,あるものは測定対象の様々な性質から生まれ,あるものは慣行から生まれる.

(Marx1867: 1-2)

(2)ドイツ語第二版

 どんな有用な事物も,鉄や紙等のように二重の観点から,つまり質と量に従って考察される.そうした事物はいずれも,数多くの属性からなる一つの総体であり,だから様々な側面からして有用であることがあり得る.こうした様々な側面及びそこから物の多種多様な使用法を発見することは歴史的行為である³.有用な事物の量を測定するための社会的尺度を見いだすこともまたそうである.商品尺度の多様性は,あるものは測定対象の様々な性質から生まれ,あるものは慣行から生まれる.

(Marx1872a: 10)

(3)フランス語版

 どんな有用な事物も,鉄や紙等のように,質と量という二重の観点から考察されることができる.どんな有用な事物も多様な属性からなる一つの総体であって,それゆえに異なる側面から役に立つことがあり得る.こうした多様な側面を発見するのと同じくして事物の多様な用途を発見することは,一つの歴史的所業である.有用な事物の量に対する社会的尺度を発見することもまたそうである.こうした商品尺度の多様性は,測定対象のヴァラエティに富んだ性質や,はたまた慣行に起源を持っていたりするものである.

(Marx1872b: 13)

(4)ドイツ語版第三版

 どんな有用な事物も,鉄や紙等のように二重の観点から,つまり質と量に従って考察される.そうした事物はいずれも,数多くの属性からなる一つの総体であり,だから様々な側面からして有用であることができる.こうした様々な側面及びそこから物の多種多様な使用法を発見することは歴史的行為である³.有用な事物の量を測定するための社会的尺度を見いだすこともまたそうである.商品尺度の多様性は,あるものは測定対象の様々な性質から生まれ,あるものは慣行から生まれる.

(Marx1883: 2,『資本論①』72頁)

このパラグラフは初版も第二版も同一の文章であるが,初版のみ「質 Qualität」「量 Quantität」「尺度 Masse」が隔字体で強調されており,この強調は第二版からは消されてしまっている.

 「有用な物」が〈質〉と〈量〉の二側面から考察されるというのは,ごく普通の考察の仕方であるように思われる.

「物」はいかにして「有用」たり得るか

 それよりもここで「事物 Ding」が「有用 nützliche」だと形容されていることに注目したい.つまり主語は単なる「或る事物」ではなく,「有用な事物」なのである.何をもって「事物」は「有用」たり得るのだろうか.その手がかりとなるのが,マルクスがこのパラグラフに付している以下の注である.

(1)ドイツ語初版

³)「諸物は,ある内在的な効力〔intrinsick vertue〕」(これはバーボンにあっては使用価値を意味する独自な表現である)「をもっている.すなわち,諸物はどこにあっても同じ効力をもっている.たとえば磁石が鉄をひきつけるというようにである」(l. c. p. 16).鉄をひきつけるという磁石の属性は,それを手がかりとして磁極性が発見されたとき,はじめて有用になったのである.

(Marx1867: 2)

(2)ドイツ語第二版

³)「諸物は,ある内在的な効力〔intrinsick vertue〕」(これはバーボンにあっては使用価値を意味する独自な表現である)「をもっている.すなわち,諸物はどこにあっても同じ効力をもっている.たとえば磁石が鉄をひきつけるというようにである」(l. c. p. 16).鉄をひきつけるという磁石の属性は,それを手がかりとして磁極性が発見されたとき,はじめて有用になったのである.

(Marx1872a: 10)

(3)フランス語版

1.「諸物は,ある内在的な効力virtue,それはバーボンにあっては使用価値を意味する独自な表現である)をもっている.すなわち,諸物はどこにあっても同じ効力をもっている.たとえば磁石が鉄をひきつけるというようにである」(l. c. p. 16).鉄をひきつけるという磁石の属性は,それを手がかりとして磁極性が発見されてはじめて有用になるのだ.

(Marx1872b: 13)

(4)ドイツ語第三版

³)「諸物は,ある内在的な効力〔intrinsick vertue〕」(これはバーボンにあっては使用価値を意味する独自な表現である)「をもっている.すなわち,諸物はどこにあっても同じ効力をもっている.たとえば磁石が鉄をひきつけるというようにである」(l. c. p. 16).鉄をひきつけるという磁石の属性は,それを手がかりとして磁極性が発見されたとき,はじめて有用になったのである.

(Marx1883: 2,『資本論①』72頁)

ここで重要性を帯びているのは「発見すること entdecken」である.マルクスの例に従うと,磁極性の発見*1は一つの「歴史的な行為」である.この「歴史的な行為」とは,少し大袈裟な言い方をするならば,科学史上における第一発見のような偉業を成し遂げた時に与えられるようなものである.

 それにしても「鉄をひきつけるという磁石の属性は,それを手がかりとして磁極性が発見されたとき,はじめて有用になった」というのは奇妙である.磁石は,「鉄をひきつける」という磁石の属性だけで,つねにすでに「有用」ではないのだろうか.しかし,マルクスによればそうではなく,「それを手がかりとして磁極性が発見されたとき,はじめて有用になった」というのである.これではマルクスが磁石の属性それ自体としてはアン・ジッヒ「有用」とはみなしていないことになる.

 この一文はおそらく次のように解釈できる.

 まず,古代以前に人間が未だ「鉄をひきつける」という磁石の属性を認識していない時代が想定される.この時代において磁石は本来的に「鉄をひきつける」という属性を有している.磁石がその属性を潜在的に有しているということは,人間がその属性を認識していることとは,何らの関係もなく存在する.その上で,あるとき人間は磁石が「鉄をひきつける」という属性を持っていることを発見することになる.この時点においてはじめて先のマルクスの一文の解釈が二分される.というのも,「鉄をひきつける」という磁石の属性を人間が初めて発見したときのことを,マルクスが磁極性の発見と同一視しているのか,それともそうでないか,という点で解釈が二分されるからである.

磁石の属性と磁極性の発見についての科学史

 この点をより詳しく理解するために,以下では磁石の属性と磁極性の発見に至るまでの科学史を簡単に振り返っておきたい.

 まず「鉄をひきつける」という磁石の属性については,すでに紀元前600年ごろの古代ギリシャより知られていたことが確認できる.山本義隆(1941-)によれば,

古代ギリシャエーゲ海世界において,知られているかぎりで最初に磁石に言及したのは,商業と海運で栄えたイオニアの港町ミレトスのタレス(紀元前六二四ー五四六)と言われている.

山本2003:17)

また山本充義と山口芳弘によれば,

西のギリシャでは自然科学の祖と言われる哲学者ターレス(BC600年ごろ)が琥珀や磁石の吸引力はその中に霊魂が存在するのではないかと考えた.東の中国では琥珀は容易に得られなかったが,摩擦電気が起こりやすい絹織物は3,000年以上前の殷時代に盛んに織られ,また玳瑁(海亀の甲羅,鼈甲)や宝石が宝飾品として使われていた.これらを通じ,古代人は日常の生活の中で,静電気現象を薄々ながらも知ることになる.

山本・川口2009:754)

このように古代より「鉄をひきつける」という磁石の属性については認識されていたことが確認できるが,磁極性の発見——マルクスのいう「歴史的な行為」——については,ペトロス・ペレグリヌス(Petrus Peregrinus de Maricourt)の『磁気書簡』(Epistola de magnete, 1269)の登場を俟たねばならなかった*2.ミッチェルによると,

ペレグリヌスは,磁石には二つの極があることを初めて解明した人物なのだ.そして,磁石は引き合うだけでなく,反発し合うということに初めて気づいた研究者の一人である.

ミッチェル2019:52)

磁石には二つの力がある.それは〈引き合う力〉と〈反発し合う力〉である.磁極の発見と同時に〈反発し合う力〉という磁石のもう一つの特性が発見されたのは偶然ではない.磁石はN極とS極を持ち,異なる極(N極とS極)同士は引き合うが,同じ極(N極とN極、S極とS極)同士は反発し合うという性質を持つ.

 だが,ペレグリヌスは磁極が天界にあると考えていたので,このとき磁極が地上にあるとはまだ考えられていなかった.地磁気という考えは、ウィリアム・ギルバート(William Gilbert, 1544-1603)の『磁石論』(De Magnete, 1600)においてようやく確認される.ミッチェル曰く,

ペレグリヌスが三〇〇年ほど前に,磁石の「生来の本能」について書き,それが不変の性質だということを暗に示したのに対して,ギルバートは,地球自体にその基本的な力があり,さらにその力が地球の中心と分かちがたく結びついているとしたのである.

ミッチェル2019:69)

以上のような科学史を踏まえると——マルクス自身このような科学史を認識していたかどうかは分からないが——少なくともペレグリヌスによる磁極性の発見以降を,それ以前の「鉄をひきつける」という磁石の属性が認識されていた時代と区別することには,一定の妥当性が認められる.ペレグリヌスによる磁極性の発見までは,磁石のもう一つの属性である反発力については知られていなかったのだが,マルクスは反発力についてはいみじくも言及していない.以上の点から考察するに,「鉄をひきつけるという磁石の特性は,それを手がかりとして磁極性が発見されたとき,はじめて有用になった」というマルクスの一文は,科学史に照らし合わせても概ね通用するものである.その上で,さらに究明されるべき事柄は「はじめて有用になった」ということの内実であろう.

f:id:sakiya1989:20200904175626p:plain

sakiya1989.hatenablog.com

文献

*1:この点について詳しくは山本2003ミッチェル2019をみよ.

*2:ペレグリヌス『磁気書簡』が「はじめて印刷されたのは一五五八年のアウグスブルクであるが,それ以前には手写本でもって回覧されていた」(山本2003:270)という.Peregrinus1558をみよ.