まだ先行研究で消耗してるの?

真面目に読むな。論理的に読むな。現実的なものは理性的であるだけでなく、実践的でもある。

マルクス『資本論』覚書(4)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

人間的欲求を満たす物としての商品

(1)ドイツ語初版

 商品とはさしあたり,一つの外面的対象であり,その固有の諸属性によってなにかある種の諸々の人間的欲求を満たす物である.こうした人間的欲求の性質は,たとえそれが胃袋から生じようとも空想から生じようとも,事柄を何ら変えるものではない².いかにして物が人間的欲求を満たすのか,直接的には生活手段として,つまり享楽の対象としてか,はたまた一つの回り道であるが生産手段としてか,といったことについてもまた,ここでは取扱わない.

(Marx1867: 1)

(2)ドイツ語第二版

 商品とはさしあたり,一つの外面的対象であり,その固有の諸属性によってなにかある種の諸々の人間的欲求を満たす物である.こうした人間的欲求の性質は,たとえそれが胃袋から生じようとも空想から生じようとも,事柄を何ら変えるものではない².いかにして物が人間的欲求を満たすのか,直接的には生活手段として,つまり享楽の対象としてか,はたまた一つの回り道であるが生産手段としてか,といったことについてもまた,ここでは取扱わない.

(Marx1872a: 9-10)

(3)フランス語版

 商品とはさしあたり,一つの外的対象であり,それに固有の諸特性によってなんら重要ではないある種の諸々の人間的欲求を満たす物である.こうした人間的欲求が胃袋から生じようと空想から生じようと,その性質は事柄を何ら変えるものではない.ここでは,いかにしてこうした人間的諸欲求が満たされるか,直接的に,対象が一つの生存の手段であるか,一つの迂回路として,それが生産の手段であるかといったこともまた問題としない.

(Marx1872b: 13)

(4)ドイツ語第三版

 商品とはさしあたり,一つの外面的対象であり,その固有の諸属性によってなにかある種の諸々の人間的欲求を満たす物である.こうした人間的欲求の性質は,たとえそれが胃袋から生じようとも空想から生じようとも,事柄を何ら変えるものではない².いかにして物が人間的欲求を満たすのか,直接的には生活手段として,つまり享楽の対象としてか,はたまた一つの回り道であるが生産手段としてか,といったことについてもまた,ここでは取扱わない.

(Marx1883: 1-2,『資本論①』71〜72頁,訳は改めた)

ここで「さしあたり zunächst」という副詞が含意している事柄は一体なんであろうか.『資本論』の少し後の展開を見ると,商品には使用価値と交換価値という二つの要因があることが後述されている.だが,ここではまだ商品の二つの要因についてはいまだ言及されていない.そのため,ここではそこに至る論理展開の緒として「さしあたり zunächst」と述べられているのではなかろうか.

 ここでは「商品 Waare」は「人間的欲求 menschliche Bedürfnisse」の観点から説明されている.商品のいわば存在理由(raison d'être)は「人間的欲求を満たす」点にある.「人間的欲求 menschliche Bedürfniss」は脳内物質として人間の身体の内部にあるが,そうした脳内物質を満たす物は,個体としての人間身体の外部に位置するので,ここでは「一つの外面的な対象」と呼ばれている.

ニコラス・バーボン

 マルクスは注2でニコラス・バーボン(Nicholas Barbon, 1640-1698)の著作から引用している.

²)「欲望は欲求を含意している.それは精神の食欲であり,肉体にとっての飢えと同様に自然的なものである.…(物の)大多数は精神の諸欲求を満たすことでその価値を持っている.」(ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究.ロック氏の諸考察に答えて』ロンドン,1696年,p. 2, 3.)

(Marx1867: 1,『資本論①』72頁)

ここでバーボンについて軽く触れておこう*1.バーボンは1640年のロンドンに生まれ,ライデンで医学を学び,ユトレヒトで医師の学位を得た後にロンドンに戻った.

 そんなある日,1666年9月2日にロンドンでパン屋のかまどから出火して,ロンドン市内の家屋の8割以上が消失する一大事件が起きた(ロンドン大火 the Great Fire of London ).燃え広がった原因は、家屋のほとんどが木造であり、街路も狭かったためだという.この反省を生かし,1667年の「再建法」では家屋はすべて煉瓦造または石造とされ,木造建築は禁止され,道路の幅員についても規定された.

 バーボンもまたロンドンの再建復興に尽力した.そのさい,彼は火災保険の必要性を主張し,事業を起した.いまでは彼は世界初の火災保険会社の創設者として知られている.

 バーボンはポリティカル・エコノミーに関する著作をいくつか残しているが,その中で貨幣や自由貿易,需要と供給などについてのイノベーティブな見解を示したという.彼の『交易論』(A Discurse of Trade, 1690)は,ケインズの『一般理論』やシュンペーターのような20世紀の経済学者たちに影響を与えたという点で,重要な著作であるという.

 バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(A DISCOURSE Concerning Coining the New Money lighter, 1696)が公刊されたのは,バーボンの亡くなるおよそ2年前であり,彼が56歳になった年である.これがおそらくバーボンの最後の著作である.

 マルクスによるバーボンの著作からの抜粋は,1863年5月から6月にかけてマルクスが作成した「サブノート Beihefte E・F」に見出される(森下2010).

 上でマルクスが引用した箇所は,バーボンの原文を読むと二つのパラグラフにまたがっていることが確認できる(Barbon1696: 2-3)*2

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文献

*1:以下ではウィキペディアWikipedia)の記述を大いに参考にした.なおマルクスとバーボンを扱っているものとして鈴木2014がある.

*2:拙訳「〔翻訳〕ニコラス・バーボン『より軽い新貨幣の鋳造に関する論究』(2)」を参照されたい.

マルクス『資本論』覚書(3)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程(承前)

マルクス現象学的方法

 『資本論』第一部は次の文章から始まる.

(1)ドイツ語初版

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な〔怪物的な〕商品集合」¹として現象し,個別の商品は,その富のエレメント形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.

(Marx1867: 1)

(2)ドイツ語第二版

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な〔怪物的な〕商品集合」¹として現象し,個別の商品は,その富のエレメント形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.

(Marx1872a: 9)

(3)フランス語

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な商品蓄積」¹として示される.商品とはこの富のエレメント形式であり,したがって,商品の分析が我々の研究の出発点となる.

(Marx1872b: 13)

(4)ドイツ語第三版

 資本主義的生産様式が支配している諸々の社会の富は,一つの「膨大な〔怪物的な〕商品集合」¹として現象し,個別の商品は,その富のエレメント形式として現象する.したがって,我々の研究は商品の分析から始まる.

(Marx1883: 1,『資本論①』71頁)

ここで「現象する erscheint」「個別の einzelne」「エレメント形式 Elementarform」という語は,おそらくヘーゲル精神現象学』の用法に倣っていると思われる.あるいはマルクスは『資本論』をいわば「現象学的方法」(ハイデガー存在と時間』)を用いて叙述していると言えるだろう.この点から,マルクスヘーゲルの弟子であることを宣言したことの意味も了解されよう.これに対して,フランス語版は,ドイツ語版の「現象する erscheint」という言葉を「〔暗に〕示される s'annonce」と訳しており,この点でフランス語版はマルクス現象学的方法が見え難くなってしまっている.さらにフランス語版は,「商品」の持つ個別性(Einzelnheit)の観点がすっぽり抜け落ちてしまっており,どうやら『資本論』の「現象学的方法」をあまり上手く翻訳できていないように思われる.実際,『資本論』フランス語版におおける翻訳上の表現の問題に関して,エンゲルスマルクスに対して苦言を呈している(この点に関しては,櫻井2021を参照されたい).

きのう僕はフランス語訳で工場立法にかんする章を読んだ.この章を洗練されたフランス語に移した手練には敬意を表しながらも,やはり僕はそれをこのみごとな章のためには残念に思う.力強さも活気も生命もなくなっている.平凡な文筆家にとっての,ある種の優雅さをもって自分を表現することの可能性が,ことばの強勢を代償として買い取られているのだ.このような現代の規則ずくめのフランス語をもって思想を表すということは,ますます不可能になってくる.窮屈な形式論理のためにほとんど至るところで必要になってきた文章の置き換えによってだけでも,すでに叙述からいっさいの特異なもの,いっさいの活気あるものを奪い去っている.英訳のさいにフランス語を基礎にすることは,僕は大きなまちがいだと考えたい.英訳では原文の力強い表現が弱められる必要はない.固有な弁証法的な箇所でやむをえず失われるものは,ほかの多くの箇所における英語のより大きな力強さと簡潔さとによって償われるのだ.

(『マルクスエンゲルス全集』第33巻,82頁).

「固有の活動領域(エレメント)」の形式

 ここで引用符が付いている「膨大な〔怪物的な〕商品集合 ungeheure Waarensammlung」の引用元は,原注1によれば,マルクス『経済学批判』4ページにあるとされているが,実際には3ページである.引用元でマルクスは次のように述べている.

 一見したところ,ブルジョワ的な富は,一つの膨大な〔怪物的な〕商品集合として現象し,個別の商品は,ブルジョワ的な富のエレメント的存在として現象する.だが,どの商品も自らを使用価値交換価値という二重の観点の下に置いている.

(Marx1859: 3)

『経済学批判』においては「その〔ブルジョワ的な富の〕エレメント的存在として als eine elementarisches Dasein 現象する」と表現された「個別の商品 einzelne Waare」は,『資本論』においては「その〔資本主義的生産様式が支配的である諸社会の富の〕エレメント形式として als seine Elementarform 現象する」と表現されている.(ただし,ドイツ語初版では強調されていた「エレメント形式」はドイツ語第二版以降では強調されていない.)

 「個別の商品」が社会的富の「エレメント形式 Elementarform」として現象するという場合,それを〈エレメント〉の側面と〈フォルム〉の側面から考察することができる.入江幸男(1953–)は〈エレメント〉を次のように説明している.

エレメント(Element)といえば,哲学史上では,ひとは直ぐに,ギリシャ哲学の四大エレメント(地・水・風・火)を想起する.この場合,エレメントとは,元素(Urstoff)の意味である.一般には,この元素の意味からの転義で,構成要素(Bestandteil)の意味で使われることが多いと思う.エレメントには,これらの周知の意味の他に,本来の乃至固有の活動領域という意味がある.この意味のエレメントの説明でよく例に挙げられるのは,魚のエレメントは水である,鳥のエレメントは空気である等,また悪例を挙げるならば,女のエレメントは家庭であるというものもある.

入江1980: 69)

ここで入江は〈エレメント〉の意味を二つ挙げている.ひとつは「構成要素」という意味での〈エレメント〉であり,もうひとつは「固有の活動領域」という意味での〈エレメント〉である.

 マルクスが「個別の商品」が「〈エレメント〉形式」として現象すると述べた際の「エレメンタール Elementar」の意味はどちらの意味であろうか.これは一見すると,「構成要素」の意味で用いられているように思われる.しかしながら,同時にもし「固有の活動領域」という意味でも用いられているとしたらどうだろうか.もし「個別の商品」が何らかの「活動領域」の形式として現象するものだとしたら,「個別の商品」という〈エレメント〉で活動しているのは一体何なのだろうか.それはおそらく「抽象的人間的労働」であろう.

「ungeheure」をどう解釈するか

 「ungeheure」には,これまでにいくつかの解釈が施されてきた(「ungeheure」について詳しくは臼井2001をみよ).的場昭弘(1952–)は,この「ungeheure」をルドルフ・オットー(Rudolf Otto, 1869–1937)の『聖なるもの』(Das Heilige, 1917)における議論と結びつけて,「畏れ多い商品集積」と解釈している(的場ほか2011).熊野純彦(1958–)は,「カントによれば,なんらかの対象はその量が対象の概念を破壊するほどのものとなるとき「とほうもない」と呼ばれる」(熊野2013: 38)と述べた上で,『経済学批判』で言及された以下のロンドンの光景を引用している.

 ロンドンのもっともにぎやかな通りには,商店がくびすを接して立ちならび,ショーウィンドーには世界のあらゆる富が,インドのショール,アメリカのレヴォルバー,中国の陶磁器,パリのコルセット,ロシアの毛皮製品,熱帯地方の香料がきらびやかに輝いている.だがこれらすべての現世の享楽品はそのひたいに宿命的な白い紙片を貼付され,その紙片にはアラビア文字が,ポンド,シリング,ペンスという,ラコニアふうの文字とともに書きこまれている.これこそが,流通にあらわれている商品のすがたなのである.

(Marx1859: 65,熊野2013: 38)

沖公祐(1971–)もまた,熊野純彦と同様に『経済学批判』のこの箇所を引用し,「在庫がうずたかく積まれた倉庫が建ち並び,商店のショーウィンドウは陳列された商品で溢れ返っている.これが「巨大な商品の集まり」の具体的なイメージだとすれば,マルクスの言う富とは,スミスが少なくければ少ないほどよいと考えたストックそのものであることが分かる」(沖2019: 40)と述べ,アダム・スミスのストックの議論をマルクスの商品論に接続している.その上で沖は「マルクスの「商品の集まり」はいわば有機(生物)である」(沖2019: 41)という見解を示している.

 「ungeheure」は,文字通りには「怪物的な」ものを意味し,したがって「不気味な」ものというニュアンスを持っていた.そこから転じて十八世紀末頃からは,主に「量の過剰さ」を意味するようになった.フランス語版では「immense」と訳出されているが,「immense」には「ungeheure」が持っている「怪物的な,不気味な」ものというニュアンスが感じられない.文学的な表現ではあるとはいえ,やはりマルクスがわざわざ引用符を付けてまで引用している意味を理解するためには,「ungeheure」本来の「怪物的な,不気味な」ものというニュアンスを汲み取り損ねてはならないであろう.

階級分析から資本主義の分析へ

 『経済学批判』では「ブルジョワ的な富 bürgerliche Reichthum」とされていた箇所が,『資本論』では「資本主義的生産様式が支配的である社会の富」へと修正されている.おそらくマルクスは前者で「富」を「ブルジョワ的」と形容することによって、〈階級〉としてのブルジョワ(これはプロレタリアと対抗概念である)を念頭に置いていたのであろう.だが,「富」を形成するところの「社会」には,ブルジョワもいればプロレタリアもいる.「資本主義的生産様式が支配している諸々の社会」のなかには,ブルジョワとプロレタリアという二つの階級の両方が行為主体として含まれているのであるから,「ブルジョワ的な富」といってブルジョワだけを取り上げるのでは片手落ちである.それゆえに『資本論』では「ブルジョワ的な富」という表現は避けられたのではなかろうか.

 沖によると,この「富 Reichthum」は,アダム・スミスの『国富論』を「強く意識した(原文ママ)書かれたもの」(沖2019: 28)なのだという.

国富論』は「富とは何か」という問いに答えようとした書物だと言える.この問いに対し,スミスは,余剰(ストック)としての貨幣(財宝)のみを重視する重商主義は富の偽の見かけ(仮象)に惑わされていると批判した上で,真の富は必要(フロー)であると答えた.マルクスは,この答えを退けたが,それだけではない.『資本論』冒頭の一文が示しているのは,スミスの問いの立て方そのものが誤っているということである.立てるべき問いは,「富とは何か」ではなく、特定の生産様式が支配する社会の下で「富はどう現れるか」である.

沖2019: 45)

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文献

マルクス『資本論』覚書(2)

目次

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マルクス資本論』(承前)

第一部 資本の生産過程

 『資本論』第一巻は「第一部 資本の生産過程」に該当する.その「初版序文」において,続編の構成は次のように予告されていた.

本書の第二巻資本の流通過程第二部)と総過程の諸形態第三部)とを,最後の第三巻第四部)は理論の歴史を取り扱うことになるであろう.

(Marx1867: Ⅻ,『資本論①』27頁)

だが,この予告はマルクス自身によっては果たされなかった.それは未完のままマルクスが亡くなってしまったからである.マルクス没後公刊された『資本論』の続編は、マルクスの遺稿をもとにエンゲルスによって編纂されたものである(『資本論』第二巻「資本の流通過程」および第三巻「資本主義的生産の総過程」)*1

資本論』初版と第二版における篇章の区分の違い

 マルクスは『資本論』「第二版後記」において,初版からの変更点について次のように言及している.

 初版の読者には,まず第一に,第二版で加えられた変更について報告しておかなければならない.篇章の分け方が見わたしやすいものになったことは,一見して明らかである.追加した注は,どこでも第二版への注と明記してある.

(Marx1872: 813,『資本論①』28頁)

 では,篇章の区分は具体的にどのように変更されたのであろうか.以下で『資本論』の冒頭部分を見比べてみよう.

(1)ドイツ語版『資本論』初版

第一部 資本の生産過程

第一章 商品と貨幣

第一節 商品

(Marx1867: 1)

(2)ドイツ語版『資本論』第二版

第一部 資本の生産過程

第一篇 商品と貨幣

第一章 商品

第一節 商品の二つの要因:使用価値と価値(価値実体,価値量)

(Marx1872: 9,『資本論①』71頁)

第二版では「篇 Abschnitt」が追加されたことに伴って,下の節タイトルにも変更が加えられている.些細な違いではあるが,ここからマルクスが『資本論』第二版において篇章の区分の改善に努めた跡が窺える.

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文献

*1:いわゆる「プラン論争」あるいは「プラン問題」について詳しくは大谷2019を参照されたい.

マルクス『資本論』覚書(1)

目次

はじめに

 本稿ではマルクス『資本論』(岡崎次郎訳、大月書店)を読む.

マルクス資本論

 まず『資本論』(初版)の表題紙をご覧いただきたい.

マルクス資本論』表題紙)

資本論』の文字通りの正式なタイトルは『資本:政治経済学の批判』である*1

 マルクスは,『資本論』が『経済学批判』の続編をなすと述べている*2.『資本論』のサブタイトルには,以前の著作タイトルとほぼ同じものが付けられている.

政治経済学の批判

 副題にある「政治経済学の批判」とは一体何であろうか*3.「政治経済学ポリティカル・エコノミー」について,アダム・スミス(Adam Smith, 1723-1790)は『国富論』の中で次のように説明している.

 政治経済学ポリティカル・エコノミーは,政治家や立法者の科学サイエンスの一分野として考えた場合には,二つの明確な目的がある.第一に,国民に十分な収入や食料などの生活物資を提供すること,つまり,より適切にいえば,国民が自分自身で,そのような収入や食料などの生活物資を入手できるようにすることであり,第二に,十分な公共サーヴィスを提供するための収入を,国家ステートないし共和国コモンウェルスにもたらすことである.それが提案することは,国民と統治者の両方を豊かにすることなのである.

 さまざまな時代と国における富裕のさまざまな進歩は,国民を富ませることについて,二つの異なった政治経済学の体系を生み出してきた.ひとつは重商主義の体系,もうひとつは,農業の体系と呼ぶことができよう.

(Smith1789: 138,高訳614頁)

これら「二つの異なった政治経済学の体系」は,『資本論』ではどのように批判されているのだろうか.また「資本」と「政治経済学」はどのような関係にあるのだろうか.こうした点については追って見ていきたいと思う.

タイトルにおける Zur の有無

 『経済学批判』のタイトルにはZurが付いていたが,『資本論』のサブタイトルにはZurが付いていない.はたしてこのZurの有無には何か特別な意味合いはあるのだろうか.大谷禎之介(1934-2019)によれば,この相違点については特別気にするほどの意味はないようである.

独文タイトルは « Zur Kritik der Politischen Oekonomie » である.先頭の zur (zu der)は「に寄せて」という意味だから,この書の英語版のタイトルは “A Contribution to the Critique of Political Economy” であり,フランス語版では « Contribution à la critique de l'économie politique » と訳されている.日本ではこれまで,ほとんどの訳書が,この zur は無視して,たんに「経済学批判」と訳してきた.一九〇四年観光のストウン訳でも,背のタイトルは “Critique of Political Economy” となっている.この扱いは,マルクスが彼の書簡のなかで,「ぼくの『経済学批判[Kritik der Politischen Oekonomie]』」(一八五九年二月一日付ヴァイデマイアー宛の手紙,MEGA Ⅲ-9-294; MEW 29-572)とか,「私自身が刊行した「経済学批判[criticism of political economy]」」(一八六〇年六月二日付ベルラタン・フォン・セメレ宛の手紙,MEGA Ⅲ-11-25; MEW 30-551)とか,「ぼくの批判[Kritik]」(一八六二年八月二〇日付エンゲルス宛の手紙,MEGA Ⅲ-12-212; MEW 30-280)とか,「私の経済学批判[Kritik der Pol. Oek.]」(一八六二年一二月二八日付クーゲルマン宛の手紙,MEGA Ⅲ-12-296; MEW 30-639)と書いているところを見ても,マルクス自身がこの書を,zurなしの『経済学批判』と呼んでもいいと考えていたことがわかるのであり,不当ではないであろう.一八六二年一二月二八日付クーゲルマン宛の手紙のなかでは,『資本』という独立の著作には,著書『経済学批判』と同じ「経済学批判[Zur Kritik der Pol. Oek.]」というサブタイトルを付けるつもりだ,とマルクスは書いたが,マルクスがのちに『資本論』に付けたサブタイトルは,zur のない「経済学批判[Kritik der politischen Oekonomie]」であった.

大谷2019:86-87)

そもそもマルクスが Kritik に Zur を付けていたのは『経済学批判』が初めてではない.『独仏年誌』に載せた「ヘーゲル法哲学の批判のために」(Zur Kritik der Hegel'schen Rechts-Philosophie, 1844)においてすでにそうであった.というよりも,フォイエルバッハが『ハレ年誌』に「ヘーゲル哲学の批判のために」(Zur Kritik der Hegel'schen Philosophie, 1839)というタイトルで載せていたので,マルクスのタイトルセンスは二番煎じというか,実はそれほどオリジナリティはなかったのである.少なくとも『経済学批判』までのマルクスは,1845年のフォイエルバッハ・テーゼの時点ですでにフォイエルバッハを思想的には批判しえたとはいえ,フォイエルバッハのタイトルセンスに関してはまだ引きずっていたといえるかもしれない.

L・フォイエルバッハヘーゲル哲学批判のために」(Ludwig Feuerbach, Zur Kritik der Hegel'schen Philosophie)が掲載された『ハレ年誌』(Hallische Jahrbücher für deutsche Wissenschaft und Kunst, 1839, No. 208.)

資本論』の邦訳者たち

 最初の邦訳者はなぜタイトルの『資本』に「論」を付けたのだろうか.単なる『資本』だけでは素っ気なかったからであろうか.「資本」について論じている書物だから『資本論』にしようと考えたのだろうか.そもそも一体だれが『資本』を『資本論』として邦訳したのだろうか.

 日本語として『資本論』を最初に完訳*4したのは高畠素之(1886-1928)であるが,『資本論』の最初の部分的翻訳を行ったのは安倍磯雄(1865-1949)だとされている.

1867(慶応3)年,カール・マルクスは『資本論』の第1巻を刊行し,その16年後に没した.その『資本論』は、日本において安倍磯雄により初めて部分翻訳がなされ,1909(明治42)年5月から『社会新聞』に6回掲載された.この後,安倍による完訳が行われることはなく,1919(大正8)年に松浦要と生田長江による翻訳がそれぞれ刊行されたが,様々な人々から誤訳の多さを批難されたことにより,翻訳は再び中絶した.そうした中,高畠素之による翻訳が進み,1920(大正9)年6月から刊行が始まり,最終的には1924(大正13)年7月に最後の巻を刊行して,『資本論』全3巻の翻訳を完成させるのであった.

新藤2015:103)

新藤雄介(1983-)によれば,「1909(明治42)年に安倍磯雄の部分訳が始まりながら,『資本論』の全体が日本語で読めるようになるためには,1924(大正13)年の高畠素之による完訳まで,約15年かも引き延ばされてしまった」(同前)のであり,そうしたなかで山川均(1880-1958)の『資本主義のからくり』がよく読まれたのだという*5

 実はここで登場した3人(安倍磯雄・山川均・高畠素之)には共通点がある.それは,かれらが同志社にいたという事実であり,したがってキリスト教を経て社会主義者になったということである.もちろんこうした共通点は偶然なのかもしれないが,当時の同志社が彼らにとってどのような役割を果たしていたのかと興味を抱かせるのに十分である.辻野功(1938-2014)は彼らについて次のように述べている.

安倍磯雄,山川均,高畠素之は,そろって同志社中退生である.もっとも安倍磯雄の場合は同志社英学校正課卒業後,神学科に入学したが,グリーン博士の旧約聖書講義のことから,入学十一日にして親友村井知至とともに退学したのである.この中退生たちは,いずれも第一級の社会主義者である.しかも,彼らがともにキリスト教から社会主義へはいっていったという点で,さらには高畠が初めて完訳した資本論の紹介という点で共通の経歴をもっているのである.

辻野1964:22)

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文献

*1:以下では慣例に従って『資本論』と記す.

*2:『経済学批判』の文字通りの正式なタイトルは,『政治経済学の批判のために』(Zur Kritik der politischen Oekonomie, 1859)である.以下では慣例に従って『経済学批判』と記す.

*3:我々が現在呼ぶところの「経済学 Economics」という語は,アルフレッド・マーシャル(Alfred Marshall, 1842-1924)の『経済学の原理』(Principles of Economics, 1890)に由来する.

*4:日本における『資本論』翻訳史について詳しくは斎藤・佐々木2017をみよ.

*5:新藤はこの「部分的に日本語で読んだこともあるが,しかし『資本論』そのものを読んだことはない」期間を「奇妙な事態」と呼んでいるが,しかし『資本論』自体が長い書物であるがゆえに,『資本論』そのものではなくその解説書を読むというスタイルは,カントの『純粋理性批判』の解説書だけを読んで『純粋理性批判』そのものを読まないというように,すでにいくつもの完訳が出回っている現代においても,むしろ顕著な一般的傾向である.したがって,それはさほど「奇妙な事態」ではないのかもしれない.

ヘーゲル『精神現象学』覚書(4)

目次

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ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

「哲学」と「解剖学」の違い

 さらにヘーゲルは「哲学」が他の分野とは異なる性質をもつ点について,「解剖学」を例にあげて説明する.

これに対して言われなければならないことがある.たとえば解剖学とは,生命を欠いて現にある存在という側面から考察された,身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである.そうした解剖学をめぐっては,それが「なんであるか」という一般的な観念フォアシュテルングを手にしたところで,ことがらそのもの,つまり解剖学という学の内容をそれだけでは我がものとしているわけではなく,それにくわえてさらに特殊なものを手にいれるべく努力しなければならないというはこびを,ひとが疑うこともない.——ちなみに解剖学などは知識の寄せあつめであって,学の名を与えられる権利をもたないけれども,そのようなものについては,〔「序文」にあって〕目的とか,それに類する一般的なことがらにかんしておしゃべりがなされるのが通例である.しかもそのおしゃべりは,羅列的ヒストーリッシュで概念を欠いたしかたでなされるが,内容そのものである.この神経やこの筋肉などについて語られるのもまた,そのおなじ方式においてなのである.哲学の場合は,これに対して,そのようなやりかたが用いられれば不整合が生じるのであって,そのけっか,このような様式では真理が把握されえないことが,やはり哲学そのものによって指ししめされるはこびとなるはずである.

(Hegel1807: Ⅱ-Ⅲ,熊野訳(上)11頁)

ここで「解剖学 Anatomie 」は「学の名を与えられる権利をもたない」と述べられている.つまり「解剖学」はヘーゲルのいうの意味での「学 Wissenschaft 」の名に値しないということである.

 ではヘーゲルにとって「学」とは一体なんであろうか.「解剖学などは知識の寄せあつめ」であるとされている.それが「寄せあつめ」であるということは,裏を返せばそれは「体系的」ではないということである.『精神現象学』のタイトルは本来「学の体系」であった.それゆえ哲学的な著作である本書は,解剖学のように「羅列的で概念を欠いた」方法を採用しないし,そこで叙述されているものは単なる「知識の寄せあつめ」ではあり得ない,ということになる.

 しかも,ここで「解剖学」*1が例として取り上げられているのは,全く理由がないわけではない.「解剖学とは,生命を欠いて現にある存在という側面から考察された,身体のさまざまな部分にかんする知識といったものである」とヘーゲルはいう.ヘーゲルの「哲学」がめざすところの「学の体系」は生命ある身体を有機的に把握するものだと考えられる.それゆえ,身体から生命を欠いた状態で,しかも身体の全体を通してではなく,身体の局所的な部分からのみ得られた知識の羅列に過ぎない「解剖学」のあり方は,ヘーゲルのめざす「哲学」のあり方とはまさに対極に位置しているとも言えるのである*2

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文献

*1:「なお「解剖学」については,「理性章A節a自然の観察」における第二七六段落(209 ff.)で言及されているように,ヘーゲルにとっては,「感受性」,「反応性」,「再生産」の三つのモメントへの関心がある.これについては,シェリング,キリアンが関わっている.また,同「c自己意識をみずからの直接的な現実態への関係で観察すること」の「頭蓋論」第三三〇段落(266 ff.)でも言及されており,これについては,ガルが関わっている.ヘーゲルは,ブルーメンバッハの『比較解剖学ハンドブック』やヒルデブラントの『人間の解剖学教科書』を所持しており,これらも参考にしたと思われる.ヘーゲルの「解剖学」への言及は,医学の根源となる基礎的な学問という位置づけも意識していたのではないか.ちなみに,シェリングは,バイエルンのランツフート大学で一八〇二年「医学名誉博士」の称号を得ている.」(神山2015:24).

*2:ヘーゲルの理解によると,死せるものを扱う「解剖学」との対比で,哲学は,「生命」のある「自然」を取り扱うものなのである.したがって,「生命」は,哲学にとって議論の土俵として「実体的」であり,「直接態」なのである.」(神山2015:27).

ヘーゲル『精神現象学』覚書(3)

目次

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ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文(承前)

仮象」としての「哲学」

 続けてヘーゲルは〈なぜ「哲学的な著作」においては「序文」が不適切に見えるのか〉その理由について述べている.

というのも,なにをどのように,哲学をめぐって「序文」なるもののなかで語るのが適当であるとされようと——たとえば,傾向や立場,*1一般的な内容や帰結にかんする羅列的ヒストーリッシュ論述であれ,あるいは真なるものをめぐってあれこれと述べたてられる主張や断言を繋ぎあわせることであったとしても——,そのようなものは,哲学的な真理が叙述されるべき様式や方式として,ふさわしいものではありえないからである.その理由はまた以下の点にある.哲学は本質的に普遍性という境位のうちで展開されるものであり,しかもその普遍性は特殊なものをうちにふくんでいる.そのかぎりで哲学にあっては,他のさまざまな学にもまして,目的や最終的な帰結のうちにこそ,ことがら自身が,しかもその完全な本質において表現されているものだ,という仮象が生まれやすい.この本質にくらべれば,実現の過程はほんらい非本質的なものである,とされるわけである.

(Hegel1807: Ⅰ-Ⅱ,熊野訳(上)10〜11頁)

上で「羅列的な論述」と訳されているドイツ語の eine historische Angabe は,樫山欽四郎訳では「歴史的事実の報告」と訳出されていた.これに対して,山口誠一は「同行や立場,内容の概略や成果などをただ並べ立てて話すこと(historische Angabe)」(山口2008:8)と訳出しており,熊野訳もまたその文意を反映している.結論だけをただひたすら並べ立てるやり方は,真理を叙述するやり方ではないとされているのである.

 ここで「哲学 Philosophie 」はどのようなものとして認識されているだろうか.それは端的に言えば,「普遍性」こそが大事,実現に至る過程を軽視し「帰結」のみを重要視する「哲学」である.

 しかしながら,われわれが注意しなければならないのは,ここで述べられている「哲学」が,ヘーゲル自身の「哲学」ではないであろう,ということである.

 ここで述べられている「哲学」は,「仮象 Shein 」としての「哲学」に過ぎない.〈「哲学的な著作」に「序文」は不適切ではないか〉という懸案は,この「仮象」としての「哲学」がまさに「帰結」だけを重要視して,真理の実現に至るその過程を軽視するがゆえに発生した問題なのである.

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文献

*1:原文にはこの箇所にコンマはないが,Suhrkampではコンマが補われている.初版に従えば「一般的な内容や帰結の傾向や立場の羅列的な論述」となる.

ヘーゲル『精神現象学』覚書(2)

目次

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ヘーゲル精神現象学』(承前)

序文

 よく言われることだが,『精神現象学』には「序文 Vorrede 」と「序論 Einleitung 」がある.「序文」も「序論」もほとんど似たような言葉だが,「序文 Vorrede 」とは「前もって Vor- 語る言葉 Rede 」の謂である.その限りで,「序文」が本書の最初に位置しているのは理にかなっている.

 「序文」や「序論」といったものはふつう手短に済まされるものである.しかしながら,本書の「序文」は非常に長く,しかも最初の「序文 Vorrede 」の方が次の「序論 Einleitung 」よりもはるかに長い.内容的にも考え抜かれていて,ヘーゲルは明らかに気合を入れて最初の「序文」を書いている.この「序文」をしっかりと読みこなせるか否かが『精神現象学』を読解するための試金石でもある.

「哲学的な著作」における「序文」の意義

 『精神現象学』「序文」冒頭は次の通りである.

著作といったものには,なんらかの説明が「序文」において習慣にしたがい先だって与えられているものである.それは,著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし,また著作の機縁や,対象をひとしくし,先行するほかの論考や,同時代のそれに対して,じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある.そうした説明は,哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか,ことがらの本性からして不適切でさえあって,さらに目的に反するものであるかにも見える.

(Hegel1807: Ⅰ,熊野訳(上)10頁)

ここでヘーゲルは,まず著作一般における「序文」のあり方を述べた上で「哲学的な著作」における「序文」の意義について問い質している.つまり通常の著作における「序文」と「哲学的な著作」における「序文」とでは「序文」の果たす役割や意義が異なっているものとして考察されているわけである.

 ヘーゲルによれば「序文」とは「著者がその著作でくわだてた目的についてのものであるし,また著作の機縁や,対象をひとしくし,先行するほかの論考や,同時代のそれに対して,じぶんの著作が立っているものと念っている関係にかんしての説明であることもある」.つまり「序文」とは,著者がどいういう目的で書いたのかをあらかじめ読者に伝えておく箇所であり,同類の著作と比べて本書がどいういう位置付けなのか,その背景や文脈を説明する箇所である.この点については特に異論はなかろう.

 問題は〈「序文」が「哲学的な著作」においてはどうして不適切なものと見えてしまうのか〉ということである.この点について考察するには,上の引用の続きを読む必要がある.

 続きを読む前に,ひとつ注意喚起しておかなければならないことがある.ヘーゲルの叙述においては,どこまでがヘーゲル自身の主張であり,どこまでが通俗的な観念をヘーゲルが描写したものであるかを見極める必要がある.例えば,「そうした説明は,哲学的な著作の場合にはよけいなものとなるばかりか,ことがらの本性からして不適切でさえあって,さらに目的に反するものであるかにも見える scheint 」という箇所は,ヘーゲル自身の主張というよりはむしろ通俗的な観念をヘーゲルが描写したものと考えられる.「見える」ものはいわば仮象*1に過ぎないのであって,それは真理ではない.もしここでヘーゲルが〈哲学的な著作に「序文」は不適切だ〉と主張しているというのであれば,それをわざわざ「序文」で述べている本書そのものが自己矛盾に陥ってしまうことになる.だからヘーゲルは〈哲学的な著作に「序文」は不適切だ〉と主張したいわけではないであろうという推理がはたらく.

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文献

*1:「ここで注目すべきは,以上の内容すべてが,「思われる」(scheinen)という動詞からもわかるように仮象(Schein)だということである.つまり,当該の発端は,仮象の論なのである.」(山口2008:7).