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マルクス「フォイエルバッハ・テーゼ」覚書(1)

目次

マルクスフォイエルバッハ・テーゼ」

11テーゼ

Die Philosophen haben die Welt nur verschiden interpretirt, es kömmt drauf an sie zu verändern.

哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきただけであり、重要なのは世界を変えることである。

(MEGA² IV/3, S.21)

このテーゼは「哲学者たちは世界がどうなっているかを色々と説明するだけで、世界そのものを変えようとはしない」という哲学者の消極的な側面を含意しているが、哲学者がネガティヴなものとして捉えられるのは、「世界を変えること」をポジティブなものとして捉える限りにおいてである。

 ここで注意しなければならないのは、このテーゼは「世界をさまざまに解釈すること」それ自体を拒否したり退けたりしているわけではない、という点である。「世界をさまざまに解釈すること」はむしろ「世界を変えること」の前提をなしている。なぜならば、「世界をさまざまに解釈すること」を抜きにしては、変革すべき対象となる「世界」を認識することさえ出来ない状態に陥ると考えられるからである。「タブララサ」(ロック)のように認識のないまっさらな状態で「世界を変えること」を目論むとしても、そもそも「世界」を認識することができなければ、世界の変革を企てることさえできない。自分の手を加えたことによってどのような結果がもたらされるかがある程度予測できるからこそ世界を適切に変えることができるのではないか。予測ができなければその行為がもたらすのは世界の破壊に他ならない(それは公害などのような外部不経済として現れる)。

「世界」はマルクスの文脈だけで解釈されるべきか

 「世界」については、マルクス以後に重要な「解釈」が施されてきた。

 ハイデガーは世界の中で生きる存在を「世界-内-存在」と呼んだが、われわれが「世界を変える」場合に、「世界」の中にわれわれは存在するのだから、われわれ自身も世界の変化と共に変化させられることになろう。

 ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で定式化したような「世界」もまた容易に見過ごすことはできない。近年では「新しい実在論」の立場からマルクス・ガブリエルが「なぜ世界は存在しないのか Warum es die Wlt nicht gibt」という問いを立てている。

 「フォイエルバッハ・テーゼ」における「世界」は、マルクス自身の文脈において明らかにされるべきであろうが、そうしたテクスト内在的な解釈はもはや終わっている。今重要なことは、マルクスのテーゼを現代の文脈の中で解釈することである。

sakiya1989.hatenablog.com

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